小池龍之介
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未来の不安にとらわれるのは無駄なこと。それよりも今やるべきことに意識を集中するのが有益です。
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年老いてみじめになりたくないと、老後のことを不安に思う方も増えているようですが、まだ若いうちから「老後の資金はどれだけ貯めれば」などと心配するのも考えものです。少なくとも守りの態勢に入ってしまうことで、やはり創造性が奪われます。ちなみにいまの世の中には、成功者の情報がばらまかれ、それに引っ張られるようにして「みじめになりたくない水準」が高すぎる人が少なくないかもしれません。小池龍之介の名言|情報に振り回されていないか注意することの大切さ年老いてみじめになりたくないと、老後のことを不安に思う方も増えているようですが、まだ若いうちから「老後の資金はどれだけ貯めれば」などと心配するのも考えものです。少なくとも守りの態勢に入ってしまうことで、やはり創造性が奪われます。ちなみにいまの世の中には、成功者の情報がばらまかれ、それに引っ張られるようにして「みじめになりたくない水準」が高すぎる人が少なくないかもしれません。
過去は、もうない。未来は、まだない。「もうない」と「まだない」の合間の、「今」のみ感じ、確かめることができる。そうやって「今」へと心を研ぎ澄ませていると、「これからどうなるだろう」とか「昨日、嫌なことがあった」などといった想念は、現実性が色あせて、どうでもよくなっていくものです。「あー、それらは、実在しない、脳の幻覚にすぎないことよなあ」とわかってくるからです。
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たとえば、会社である企画を提案し、それについて議論が行われたとしましょう。企画と自分とは別次元のもの。企画が通ったとしてもそれはあくまで企画が認められたのであって、自分が認められたということではありません。逆に、企画が通らなくても、自分が否定されたと落ち込む必要もないのです。
人の心は、必ずどこかで帳尻を合わせようとします。心にウソをつけば、我慢した本音の感情の行き場がなくなり、心を病むかもしれない。別の場所でストレスを発散するため、他の誰かを匿名で傷つけたり、家族や部下など、周りの弱き者を攻撃し、吐き出している可能性も高い。そのほうがよほどリスキーです。自分にウソをついたときの「心のきしみ代」はかなり高いものです。無意味な同調からは足を洗ってもいいかもしれません。
私たちは四六時中、考えごとをしていますが、そのせいでイライラしたり、集中力が低下しているのではないかと私は思っています。仏道の立場からいいますと、考えごとは妄想であって、現実でも事実でもありません。そのなかで心を惑わせ、迷っているとしたら、生きていないも同然。リアルな現実を感じられなくなるので、ストレスが溜まって当然です。.日ごろから意識をして「考えない」ことを自分に課してみてください。仕事をしているときはこれが自分だとか、周囲に評価されるかどうかなどと考えず、目の前の作業にひたすら没頭する。そして考える代わりに、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れるといった五感を研ぎ澄ませるのです。五感のどこかに集中して考えを止める。その究極が座禅ということになりますが、そこまでしなくても、普段の生活のなかで集中することはできます。
欲望や怒りそのものを乗り越えるためにはまず、「自分が」「自分の」「自分に」「自分を」という自我を乗り越える必要があります。
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仏教で言う「覚悟」は、皆さんが普段使っている「世間的な覚悟」とは、意味合いが大きく異なります。「覚」も「悟」も「さとる」という意味。つまり、仏教で言う覚悟とは、悟りを開くということになります。悟りを言葉で表すのは、きわめて難しいことです。あえて言うなら、「自分自身の記憶や感情、肉体やその感覚の全てが、どうでもいいものだと気づき、それらへの執着から解放される」ということでしょうか。
自分の感情がいまどうなっているのかに気づくことが大切です。ですから、日ごろから自分の心を見張る時間をできるだけ増やすこと。そして、出てきた感情を徹底的に客観化すること。怒りを感じたら、それがどのように湧いてきて、どんな具合に心のなかで暴れているか見守ってみてください。すると、怒りの演劇を遠くから眺めているような具合になって、自分と怒りとが一体化せずにすみ、次第に怒りは威力を失って消えてしまいます。
仏教には「無我」という言葉があります。自我なんてものは人間の脳が作り出したフィクションで、そもそも存在しない、と。自我がないからこそ、比較することで、自我という幻を作ろうとするのです。つまり人と自分を比較して妬ましい、羨ましいなどと感じても、それは「私という存在」が抱いた感情ではなく、安定したい脳のシステムが作動しただけ。だから、負の感情に振り回されず、単なる脳の反応なんて「放ったらかし」にするのが正解。
瞑想をすると感情や思考から離れ、「ただ、そこにいる」感覚になれます。「俺が俺が」と認められたいと思っていたけれど、そもそも「俺」なんてものはないと気づく。脳に感情を動かされているだけのちっぽけさに気づけた。
私たちにとって、心と言葉や行動が一致していることは重要なこと。そこに矛盾があると心が混乱し、筋道だった考え方ができなくなり、記憶力や判断力が衰えていきます。それはとても疲れることで、ここで新たな怒りが生まれてしまう。そこでまた、ストレスを抱え込むというわけです。
自分の気持ちをより客観化しやすくいたしますために、心のなかで繰り返し、たとえば怒っていますならば「怒っている、怒っている、怒っている……」と念じ続けるのが有効でしょう。認めてもらいたいという自己愛が出ているのなら「自己愛が出ている、自己愛が出ている、自己愛が出ている……」と念じ続けてみてください。いかなる感情も、気づいてすぐに客観化して切り離してしまえば、早いうちに消えてしまいます。ですから、自分の感情を見張る時間を長くして、間をおかずにその火を消し止める。そういうクセをつけますと、心が整理しやすくなり、気持ちがずいぶん落ち着くはずです。
瞑想は座禅を組んで、呼吸を整えることだけでもできます。私がオススメする簡単瞑想法は「小さなおっさん瞑想法」です。脳の中に、あなたとは別の「小さなおっさん」が住んでいると思ってください。普段は静かだけど、彼はたまに酔っ払いのように現れる。そして「俺はアイツと比べたらダメ人間だ」と誰かと自分を比べたり、「若手はなっていない」とイライラをグチったりします。ここで同調してはいけません。「へー、そっか~」「ふーん」と目の前でグチるおっさんを、適当にいなすイメージを持つのです。グチる小さなおっさん、つまり「脳内で勝手におしゃべりする感情」につき合って「そうだよ」「本当だよ」と同調すると、妬みや怒りの感情にとらわれます。酔っ払いにつき合うと、図に乗り、ますますタチが悪くなるのと同じ。だから、あくまでも軽く受け流してやる。すると、かまってもらえない酔っぱらいが自然と黙ってしまうのと同じように、負の感情も、いつの間にか静まるのです。これこそ座禅瞑想の極意です。
案外、本音で話しても、本当の友達は離れないもの。
SNSで承認し合うことでしかつながらない友達とは、本当に大切な友達なのでしょうか?SNSに限らず「空気を読んで皆に合わせる」ことが辛いのは、「心にウソをついている」からです。そしてウソをついてまで守っているのが、じつはたいした人間関係ではないという虚しさです。
五感のどこかに集中して考えを止める。その究極が座禅ということになりますが、そこまでしなくても、普段の生活のなかで集中することはできます。たとえば、昼食のとき。ただ味わうことに集中して召しあがってみてください。ビジネスマンの方は、昼食ですら仕事をしながらデスクでとっている方もいらっしゃるでしょうから、そんなことをしたら時間の無駄だと思われるかもしれません。けれど、ときにはゆっくり味わってみると、心がとてもリフレッシュしたことを実感できるはずです。お試しください。
怒りは、心理学で言う二次感情であることがほとんどです。プライドが傷ついたり、不安であったりという、認めたくない一次感情を隠すために現われるものなのです。
ブッダは自分の心を「城」にたとえ、堅固に守りなさいと説いています。出来事それ自体が悪なのではなく、それに対して過剰に反応する感情が悪魔となって城に攻めてくるのです。
私たちの心の中には、多かれ少なかれ、自分が持っている価値観は絶対に正しいという思い込みのようなものがあるのです。たまたま自分が採用していて、自分にはそれが向いているという価値観にすぎないのに、誰にとっても当てはまる普遍的なものだと思いたがる。だから、自分と違う価値観を採用していたり、自分と違う優先順位を採用していたりする人がいるとイライラする。自分の正しさを否定されたような気持ちになってしまいます。
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