村上龍
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会社の同僚などのグチの聞き役になることが多いというのは、別に悪いことではないです。逆の立場で考えていただきたいのですが、あまり信頼できない人や、まったく興味が持てない人に対しては、たとえ軽いグチでも言いづらいものです。たとえば「実は転職しようと思ってる」というような、グチというより切実な相談の場合は、よほど信頼していないとできないでしょう。
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知らないことは恥でも何でもありません。それに、自分がそのことについて「どれだけ知らないかを知っている」ことは非常に重要です。無知というのは、「知らないということを知らない」「知らないということに気づかない、認めない」人です。
雨には優しさがあると思う。燦々と降りそそぐ日差しは確かに爽快だが、気分が沈んでいるときなど、その明るさを敬遠したくなることがある。
表現の受け手の想像力とどう向かい合うか、という緊張感が欠けると、作品はどこまでも堕落します。
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芸術家も同じだが、本当の政治的カリスマも最初は嫌悪をもって迎えられるんだ。
恥ずべきなのは、相手の人格や気持ちを無視して自分のことだけを考え、喋る人間たちだ。
仕事のやりがいは自分で発見するもので、他人に聞くものではない。
我慢と変化は両立しない。
人生を賭けるような仕事というのは、探しても見つからないです。出会うものです。ただ、出会っても、それとも気づかずに素通りしてしまう人が多いようです。つまり、たとえ出会っても、「これだ!これしかない」というようなケースは非常に少ないんですね。「ん?これって何だ?」というちょっとした違和感に近いことが多い気がします。あれはいったい何だったんだろう、何でこんなに気になるんだろう、そんな感じです。
快楽とは、生き延びるのに必要なことがらをやった場合に与えられる。
僕が切り捨てるのではない、生態系が切り捨てるんです。
話が通じない相手と渡り合うには、尋常ではない努力が必要。必死で業績を上げる、非論理的な上司が認めざるを得ないくらい結果を出す、それしかない。
ユーモアというのは、「頑張ること」と、真逆です。ユーモアのセンスというのは生まれつきではなく、学ぶものです。ユーモアがまったくない生真面目な家庭に生まれ育った人が、豊かなユーモアの持ち主ということはあまり考えられません。だからといって、自分にユーモアのセンスがないと落ち込む必要はないです。
人生はテニスのシングルスゲームと同じで、誰かが誰かを幸福にすることなどできない。他人にしてやれることなど何もない。他人を支配するのも無理だし、支配されることもできない。もし何か他人に対してできることがあるとすれば、キラキラしている自分を見せてやることだけだ。
この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない。
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真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意と絶望が隣り合わせに存在している。
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簡単に手にはいるものに意味はない。
ダメな経営者は事業が思うようにいかないとき、あるいは利益がなかなか出ないときに限って、新しいことをはじめようとします。基軸となる事業がうまくいっていないときに、新しいことをはじめるのは愚の骨頂で、絶対にうまくいきません。基本に返るというのは、徹底して自らの強みを活かす、ということでもあります。自らの強みをさらに強化して、必要なら資金や人材などをつぎ込み、リスクを取って勝負するというのがビジネスの鉄則です。
いい大学に行って、いい会社や官庁に入ればそれで安心、という時代が終わろうとしています。それでも、多くの学校の先生や親は「勉強していい学校に行き、いい会社に入りなさい」と言うと思います。勉強していい学校に行き、いい会社に入っても安心なんかできないのに、どうして多くの教師や親がそういうことを言うのでしょうか。それは、多くの教師や親が、どう生きればいいのかを知らないからです。勉強していい学校に行き、いい会社に入るという生き方がすべてだったので、そのほかの生き方がわからないのです。
ファシズムは絶望から生まれる。
村上龍のすべての名言