共演は初めてでしたけれど、その前にすでに「お染の七役」を教えていただきました。あの「お染の七役」は早変わりで七役を演じるもので、長いこと上演されなかったのですが、昭和の初めに国太郎さんが復活なさったのですって。
坂東玉三郎
坂東玉三郎のその他の名言
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世の中の大勢と脚並みを揃えられない場合には、世の中じゃないものになるしかないじゃないですか。自分が違うものになって自由なところに脚をおろす。
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「熊谷陣屋」なんですけれど、相模の入りから通して演ったんです。あの暑い夏の京都で。それまであんまり忙しかったこともあって、ぼく、ノイローゼ気味になりました。
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芸の力でいいお三輪はこれからも出来るかもしれないけれど、その時のお三輪の花は今日一日で終わる、ということじゃないかと思っています。思いがけずほめていただいて励みになりました。
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初めは良重さんのお母さま。大先生でしたけれど、ぼくは共演するようになってからは他人というイメージがあまりなくて……。新派の女形の芸を女優の芸に翻訳なさった方で、素晴らしい方です。
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若草座というのは父が若い頃やっていた会で、それを復活したわけです。青年歌舞伎祭というものがありまして、△△会とか、会を作って参加する催しだった。若草座は2回もしていないんじゃないかな。
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稽古だといって出かけては、内緒で映画や外国からきた公演とかを見に行ったりしてたんですね。それまで父が厳しくてぎゅうぎゅうやられてましたから。
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日本の芸能というものは付け加えられてはいますけれど、非常に削ぎ落とされた端正なもの。日本ほど口伝で歌舞伎なり能なり、人間同士が引き継いできたというのは、珍しい国かもしれません。