エーリッヒ・フロム
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人は愛する者のために働く生き物なのです。
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権威は常に、何時はこのことを成せ、あのことをなすべからずと命令するような個人や制度であるとは限らない。この種の権威は、外的権威と名付けることができるであろうが、権威は、義務、良心あるいは超自我の名のもとに、内的権威としてあらわれることもある。
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良心は、外的権威と同じような冷酷な支配者であること、また人間の良心によってあたえられる秩序の内容は、結局個人的な自我の要求によってよりも、倫理的規範の威厳を装った社会的要求によって左右されやすいものであるということが明らかになっている。
愛は「自由の子」なのであり決して「支配の子」ではありません。
未熟な愛は言う、「愛してるよ、君が必要だから」と。成熟した愛は言う、「君が必要だよ、愛してるから」と。
一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。
権力欲とは強さでなく弱さに根ざしているものだ。
能動的な思考から生まれてくる思考は、常に新しく独創的である。独創的ということは、必ずしも他の人間が以前に考えなかったという意味ではなく、考える人間が、自分の外の世界にしろ中の世界にしろ、そこになにか新しいものを発見するために、その手段として思考を用いたという意味においてである。
現代人は、ものごとを急いでしないと、何か、つまり、時間を損したような気持ちになる。しかし、時間つぶし以外には、浮かせた時間をどう使っていいのかは分からないのである。
人間が完全に自然から離れることはない。あくまで人間は自然の一部だ。
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創造性とは確実なことを手放す勇気を必要とする。
我々の自発的な活動から生まれる性質のみが自我に強さを与え、ひいては自我の統一性の基礎となる。
神学の論理的帰結が神秘主義であるように、心理学の究極の帰結は愛である。
愛は、人間の実存という問題への、唯一の健全で満足のいく答えである。
愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるというパラドックスが起きる。
欲望とは人を疲弊させる底なしの穴です。
愛は能動的な活動であり受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく「みずから踏みこむ」ものである。愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。
合理化は、現実を洞察する手段ではなく、自分自身の願望を、存在する現実と調和させようとする事務的な試みである。
愛は技術だろうか。技術だとしたら、知識と努力が必要だ。
我々のものとは、人であれ無生物であれ、われわれが創造的な活動によって純粋な関係を持っているものだけである。
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