エーリッヒ・フロム
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一人の人間を愛するということは、人間そのものを愛することでもある。
3
たくさん持っている人が豊かなのではなくたくさん与える人が一番豊かなのです。
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現代では、集中力を身につけることは規律よりもはるかにむずかしい。
愛の技術の習練という問題に立ち向かうことにする。…技術の習練には規律が必要である。規律正しくやらなければ、どんなことでも絶対に上達しない。「気分が乗っている」ときにだけやるのでは、楽しい趣味にはなりうるかもしれないが、そんなやり方では絶対にその技術を習得することはできない。
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もし、私の持っているものが私を意味するなら、また、私が持っているものを失ってしまったら、私は誰なんだろう?
利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。いや実際のところ、彼は自分を憎んでいるのだ。
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。
二人の人間は、自分の交換価値の限界を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。
愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人を結びつける力である。
指導者の性格構造は、かれの主張を受け入れるひとびとの特殊な性格構造を、より端的にはっきりとあらわしていることが多い。指導者は、その支持者がすでに心理的に準備している思想を、よりはっきりと率直にのべているのである。
過去の危険は、人間が奴隷になることだった。未来の危険は、人間がロボットになるかもしれないことだ。
愛は、人と人を結びつける力なのです。
ルッターにみられるような、確実性への強烈な追求は、純粋な信仰の表現ではなく、たえられない懐疑を克服しようとする要求に根ざしている。ルッター的な解決の仕方は、いまでも多くの人々にみられるもので、ただかれらは神学的な言葉で考えないだけである。すなわち、かれらは孤独となった自我を取り除くことによって、また個人の外にある圧倒的に強力な力の道具となってしまうことによって、確実性をみつけだしている。
誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。もし愛が単なる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束はなんの根拠もないことになる。
愛は技術だろうか。技術だとしたら、知識と努力が必要だ。
狂おしい努力は、他の方法ではたえられない無力感に安堵をあたえるものであった。
勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。
愛は、人間の実存という問題への、唯一の健全で満足のいく答えである。
現代における逃走の主要な社会的通路はファシスト国家におこったような指導者への隷属であり、またわれわれ民主主義国家に広くいきわたっている強制的な画一化である。
何かをもらうために与えるのではありません。与える事自体がこの世で一番の喜びなのです。
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