エーリッヒ・フロム
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現代では、集中力を身につけることは規律よりもはるかにむずかしい。
利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。いや実際のところ、彼は自分を憎んでいるのだ。
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愛情深い母親になれるかなれないかは、すすんで別離に堪えるかどうか、そして別離の後も変わらず愛しつづけることができるかどうかによるのである。
一人の人間を愛するということは、人間そのものを愛することでもある。
愛と労働は分かちがたいものである。人は、何かのために働いたらその何かを愛し、また、愛するもののために働くのである。
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二人の人間は、自分の交換価値の限界を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。
愛の技術の習練という問題に立ち向かうことにする。…技術の習練には規律が必要である。規律正しくやらなければ、どんなことでも絶対に上達しない。「気分が乗っている」ときにだけやるのでは、楽しい趣味にはなりうるかもしれないが、そんなやり方では絶対にその技術を習得することはできない。
「愛されるから愛する」というのは幼稚な愛です。「愛するから愛される」というのが成熟した愛なのです。
過去の危険は、人間が奴隷になることだった。未来の危険は、人間がロボットになるかもしれないことだ。
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愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。
愛は技術だろうか。技術だとしたら、知識と努力が必要だ。
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愛は能動的な活動であり受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく「みずから踏みこむ」ものである。愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。
指導者の性格構造は、かれの主張を受け入れるひとびとの特殊な性格構造を、より端的にはっきりとあらわしていることが多い。指導者は、その支持者がすでに心理的に準備している思想を、よりはっきりと率直にのべているのである。
愛は、人間の実存という問題への、唯一の健全で満足のいく答えである。
神学の論理的帰結が神秘主義であるように、心理学の究極の帰結は愛である。
ルッターにみられるような、確実性への強烈な追求は、純粋な信仰の表現ではなく、たえられない懐疑を克服しようとする要求に根ざしている。ルッター的な解決の仕方は、いまでも多くの人々にみられるもので、ただかれらは神学的な言葉で考えないだけである。すなわち、かれらは孤独となった自我を取り除くことによって、また個人の外にある圧倒的に強力な力の道具となってしまうことによって、確実性をみつけだしている。
人間が完全に自然から離れることはない。あくまで人間は自然の一部だ。
現代人は、ものごとを急いでしないと、何か、つまり、時間を損したような気持ちになる。しかし、時間つぶし以外には、浮かせた時間をどう使っていいのかは分からないのである。
狂おしい努力は、他の方法ではたえられない無力感に安堵をあたえるものであった。
一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。
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