羽生善治
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歩は将棋の皮膚である。
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タイトル戦であと一回負けたらタイトルを失う状態をカド番といって、昔はカド番のたびにプレッシャーを感じていました。でも、いまは慣れてきて、「もし負け越したら次に勝ち越して返り咲けばいいや」と考えられるようになった。もちろん負けないために全力を尽くすのですが、気持ちはとても楽観的です。
不利な時のほうがかえって気楽。
改善の兆しがあるから、あれこれ手を打てる。
つい攻め込みすぎて逆襲されるというミスをよくする人が、そうならないようにと慎重に指すようになったら、おそらく別のところでミスを犯すようになるはずです。だから、ミスをなくすというより、自分のミスの癖を知っておけばいいと思います。
平均点を目指すと、限界も決まってしまう。
積極的にリスクを負うことは未来のリスクを最小限にすること。
仮説は外れることもあります。しかし、仮説検証を繰り返すうちに、次第に全体像をイメージする精度が上がっていく。
大きく見ることと、小さく突き詰めていくこと、このバランスが大切なのだと思う。
リスクを避けていては、その対戦に勝ったとしてもいい将棋は残すことはできない。次のステップにもならない。それこそ、私にとっては大いなるリスクである。いい結果は生まれない。私は、積極的にリスクを負うことは未来のリスクを最小限にすると、いつも自分に言い聞かせている。
プロですから勝負して勝つことは大前提であるにしても、完璧や完全はあり得ないし、ある程度はダメでも仕方がない。ときには負けても仕方がないと、どこかで考えているほうがストレスも小さいでしょう。
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反省の仕方ひとつにしても同様です。ミスをしたり負けたりしたときに、あとから振り返ると、たいてい似たようなところでミスをしているものです。反省はするけれども、それでも、また同じミスをすることはよくあります。そこで「二度と同じミスはしない!」と決意しても、人はすぐ忘れるじゃないですか。そして、また同じミスをしますよね。結局、癖だから仕方がないのでしょう。ただ、そういう自分の癖を知っておけば、同じミスはするものの、回数は減らせます。完全になくせれば一番いいのでしょうけれども、なかなかそうもいかないなら、頻度を低くすればいい。同じミスを繰り返すとしても、それが月に一回なのか、年に一回なのかでは、まったく影響が違います。一年に一回のミスを三年に一回にできれば大きな成長といっていい。そのくらいの考え方がちょうどいいのではないかと思います。
切り替えが必要な時というのは、「考えていることが頭から離れなくなる」時です。切り替えるためには、何か違うことをする。そうすれば、少なくともその時間は、頭の中からその「考えていること」が離れる。運動、カラオケ、何でもいい。「考えていること」からいったん離れてみると視点が変わり、気分も変わって、新たな気持ちで物事に取り組める。
よほど先見性のある人でない限り、「自分が進むべき羅針盤を見つけることができて、それがいつも合っている」ということは、ほとんどないと思います。羅針盤は、「方向性が完璧に合っていないといけない」わけではなく、大まかでいいわけです。北に行くのか、南に行くのかさえ間違えなければいい。行きたい方角が間違っていなければ、少しずつ軌道修正しながら、だんだんと目的地に近づくことはできるはずです。
ハートで考えるという概念がとても好きです。
1回1回の対局は、未知の旅に出る、知らない何かを探しに出発する。私はそんなイメージを抱いて指しています。
人間は将棋を理解していません。まだまだ知ることが、たくさんあります。
若いころは、破天荒なことをやることですごい勢いとか、運を呼ぶことがある。
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仮に批評や批判が的を射たものであったとしても、実践と、それを控室やテレビで見ているのとでは、プレッシャーも緊張感も違うのですから、もちろん参考にはしますが、かなり割り引いて聞いています。気にしすぎなのはよくないですね。
将棋における人生と日常生活での人生とをドライに割り切っていくほうがいい。
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