三島由紀夫の名言
小説家
三島由紀夫の名言。全140個。
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なぜ大人は酒を飲むのか。大人になると悲しいことに、酒を呑まなくては酔へないからである。子供なら、何も呑まなくても、忽ち遊びに酔つてしまふことができる。
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いくら乱れた世の中でも、一本筋の通つたまじめな努力家の青年はゐるもんだよ。小心で優柔不断らしい女が、男を不幸にしてゐる。
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たいてい勇気ある行動というものは、別の在るものへの怖れから来ているもので、全然恐怖心のない人には、勇気の生まれる余地がなくて、そういう人はただ無茶をやってのけるだけの話です。
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法律とは、本来ごく少数者のためのものなのだ。ごく少数の異常な純粋、この世の規矩を外れた熱誠、……それを泥棒や痴情の犯罪と全く同じ同等の悪へおとしめようとする機構なのだ。
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人生とは何だ?人生とは失語症だ。世界とは何だ?世界とは失語症だ。歴史とは何だ?歴史とは失語症だ。芸術とは?恋愛とは?政治とは?何でもかんでも失語症だ。
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ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のやうに相伴ふもので、ユーモアとは理知のもつともなごやかな形式なのであります。
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人生が生きるに値ひしないと考へることは容易いが、それだけにまた、生きるに値ひしないといふことを考へないでゐることは、多少とも鋭敏な感受性をもつた人には困難である。
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女を抱くとき、われわれは大抵、顔か乳房か局部か太腿かをバラバラに抱いてゐるのだ。それを総括する「肉体」といふ観念の下に。
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男といふものは、もし相手の女が、彼の肉体だけを求めてゐたのだとわかると、一等自尊心を鼓舞されて、大得意になるといふ妙なケダモノであります。
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恋愛とは、勿論、仏蘭西の詩人が言つたやうに一つの拷問である。どちらがより多く相手を苦しめることができるか試してみませう、とメリメエがその女友達へ出した手紙のなかで書いてゐる。
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ヒットラーは政治的天才であつたが、英雄ではなかつた。英雄といふものに必要な、爽やかさ、晴れやかさが、彼には徹底的に欠けてゐた。ヒットラーは、二十世紀そのもののやうに暗い。
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五十歳の美女は二十歳の美女には絶対にかなはない。美女と醜女とのひどい階級差は、美男と醜男との階級差とは比べものにならない。
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もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじないわけにいくだらうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。
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事件に直面して、直面しながら、理解することは困難である。理解は概ね後から来て、そのときの感動を解析し、さらに演繹して、自分にむかつて説明しようとする。
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政治的スローガンとか、思想とか、さういふ痛くも痒くもないものには、人間は喜んで普遍性と共有性を認めます。毒にも薬にもならない古くさい建築や美術品は、やすやすと人類共有の文化的遺産になります。
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「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえない。大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、子供の中の「子供らしくない部分」は決して大人には真似られない部分である。
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いくら成人式をやつたつて、二十代はまだ人生や人間に対して盲らなのさ。大人がしつかりした判断で決めてやつたはうが、結局当人の倖せになるんだ。
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女性はそもそも、いろんな点でお月さまに似てをり、お月さまの影響を受けてゐるが、男に比して、すぐ肥つたりすぐやせたりしやすいところもお月さまそつくりである。
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時間を支配しているのは女であって、男じゃない。妊娠十ヵ月の時間、これは女の持物だからね。だから女は時間に遅れる権利があるんだよ。
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幸福つて、何も感じないことなのよ。幸福つて、もつと鈍感なものよ。幸福な人は、自分以外のことなんか夢にも考へないで生きてゆくんですよ。
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そんなに、「どうせ私なんぞ」式外交ばかりやらないで、たまにはゴテてみたらどうだらう。さうすることによつて、自分の何ほどかの力が確認されるといふものであります。
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日本人は絶対、民主主義を守るために死なん。ぼくはアメリカ人にも言うんだけど、「日本人は民主主義のために死なないよ」と前から言っている。今後もそうだろうと思う。
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年をとらせるのは肉体じやなくつて、もしかしたら心かもしれないの。心のわづらひと衰へが、内側から体に反映して、みにくい皺やしみを作つてゆくのかもしれないの。
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天皇の本質というものが誤られてしまった。だから石原さんみたいな、つまり非常に無垢ではあるけれども、天皇制廃止論者をつくっちゃった。
三島由紀夫について
三島由紀夫は東京都出身の小説家。1925年(大正14年)1月14日生まれ。 学習院高等科の生徒だった16歳時に「文芸文化」に「花ざかりの森」を発表するなど、若くして小説家としての才能を発揮。東大法学部に入学すると学生作家として活躍し、長編小説「盗賊」を執筆するなどした。大学卒業後は大蔵省に入省するも9ヶ月で退職。そこから本格的な作家生活を始めた。1949年(昭和24年)「仮面の告白」が激賞され分断での地位を確立。「禁色」「金閣寺」「サド侯爵夫人」など三島文学と言われる一連の作品群を発表した。軍国主義的な思想に染まり、1970年(昭和45年)、自衛隊市ヶ谷駐屯地へと赴き、総監を拘束して自衛隊員へ憲法改正のための決起を訴えたが、それが自衛隊員に受け入れらないとわかると割腹自殺した。