為末大
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たとえば僕が会社をひとつ上場させて名誉職にでも就けば、周囲は「あの人は成功した」と思うでしょう。一方で、これもたとえ話ですが、ウガンダに行って陸上の普及に人生を賭けたものの最後に銃殺されてしまえば、「あの人は失敗した」と言われるかもしれません。でも、どちらの人生が幸せで成功したかは僕にしか分かりません。つまり、どんな人生を送るにせよ、自分が考える成功を追いかけるためには、社会の目や批判から自在であることが非常に重要だと思います。
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意味は無い。しかしそれは問題ではない。問題は意味が無い事をなぜあなたが問題だと思っているかだ。
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一般的に言われる努力は、目標に向かって力を尽くして積み重ねる行為をイメージします。1時間の練習を2時間やったら、2倍努力したと言う。でも、行動前に、「自分が何をやるべきなのか」「何のために実行するのか」と考える努力は、日本人はあまりせず、人任せにする場合が多い。僕は、こうした自問する作業は、「努力」という行為の半分以上の領域を占めると思っています。
僕がハードラーとしてひとつのことに25年を費やしたのは、気持ちが強いわけでもなんでもない。毎朝同じものを選び、他の可能性をあきらめ続けただけ。
他者の評価で満足を得ようとすると、世論から距離を置けなくなり、本来の自分の軸がブレる。
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コーチがいないことで潰れてしまうスポーツ選手も結構いる。
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全てをはっきりとさせることが問題を解決させるとは限らない。
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人を喜ばせる為に生きてやいないか。
最近、スポーツ界では体罰が問題になりました。あれは言葉力不足が原因だと思います。言葉で自分の意図や意思をしっかり伝える技能が発達していないために、伝わらないことによるイライラが爆発し、体罰が起きているような気がします。言葉によって人生が変わることがやはりあるはずです。
謙虚になろうとしてるなら今の自分は果たして謙虚なのか?なってないから人はなろうとする事ができる。
本番で勝負強い選手は、自己肯定感が強い。このままの自分でいいと知っている選手は、やはり腹が据わっている。
選手時代、人が資料を作ってくれることにたいして気を使わなかったけれど、自分でやってみて感謝するようになった。誰かが紹介するということはある種の信用貸しなのだけれど、これを他人にするようになり、意味がわかるようになった。
「こうしたい」という強い動機を持ち、「すべての挑戦は失敗ありき」と考えられるかがポイント。
「自分がなぜそれを目指すのか」と認識している人は、失敗しても、この失敗が自分にとって何を意味するのか、どんな影響があるのかという解を見つけやすい。
本当に勝利に意味はあるのかと考えこむのと、本当に勝利に意味はあったのかと考え混むのでは、後者の人生を生きたいと思う。
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6月に行われた日本選手権の予選で敗退し、ロンドン五輪の出場は果たせませんでした。2~3年前には、ロンドンのレースを自分の現役最後のレースと心に決めてトレーニングに励んできました。最後の五輪で、決勝の舞台に残り、メダル争いをする。それが自分が考える理想の結末だったのです。でも、日本選手権の予選で敗北し、想定よりも早く引退することになりました。悔しい気持ちもありますが、晴れやかな気持ちでもあります。34歳というのは、障害競争の選手としてはかなり高齢です。また、私のように170cmという小柄な選手は世界のトップ層にいません。ここ身体でこの年までよく頑張ったなと思います。
現役を引退してから思ったのは、いいときの成果よりも苦しいときの自分の振る舞いの方が次に持ち越せる自信になったなということ。
日本では早くて6歳、多くは12歳までにスポーツを始めます。たまたまその地域で盛んな種目を選択しただけなのに、指導者は「一度始めた以上、あきらめてはいけない。やりとおせ」と言う。日本で、本人の適性と種目のミスマッチが多いのはこの構図が原因で、しかもこのミスマッチは一生解消されません。ミスマッチの解消を「逃げ」とみなす文化は、実は日本の社会全体に強くあると思っています。
糸は垂らす事ができる。けれどもつかませることはできない。
成功したアスリートを見るとつい積み重ねた努力ばかりに目がいくけれど、彼らはまず頑張る前に選んでいる。
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