江崎利一
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健康も事業も、じつは精神の持ち方次第である。これは一見平凡なことのようだが、じつは非常に大事なことである。日露戦争で野戦病院勤務だったとき、瀕死の重傷を負った兵士でも、強く励ましたり気を引き立たせたりすると、不思議なほど手術は上手く運び、何人も生命が助かるのを経験したことがある。
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本当の商売のあり方、すなわち真の商道精神というものについて、私に初めて教えてくれたのは、寺子屋の師匠で、楢村佐代吉先生である。「商売というものは、自分のためにあるとともに、世の中のためにあるものだ。商品を売る人はモノを売って利益を得るが、買う人もまたそれだけの値打ちのものを買って得をする。この均霑性すなわち共存共栄がなかったら、本当の意味の商売は成り立たないし発展もしない。商売で大成しようとする者は決してこのことを忘れてはならない」。
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私は商売一筋に80余年を生きてきた。商売に生きるということは、私の場合、創業以来の「食品による国民体位の向上」というモットーをいかにして実現するかということに尽きる。
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私自身まことに良い環境に置かれたもので、小さいときから「働く習慣」が知らず知らずのうちに我がものとなって、少しもそれが億劫でなくなった。私は学校教育の機会には恵まれなかったが、この勤労教育には大いに恵まれた。ここに、あれこれ仕事を命じた父の本意と慈愛があったものと、私はありがたく感謝している。
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グリコのスローガンにも頭を悩ました。「簡単で」「力強く」「覚えやすく」「興味の持てるもの」。しかも、日本で初めての栄養菓子の性格を十分表したものでなければならない。
父の考えでは、人間は人の世話になると一生頭があがらない。世話にならずに済めばそれに越したことはない。無理をして学校に進まなくても、働き次第、努力次第で学校出に負けない立派な商人になることができる。それが我が家のためであり、また子供自身のためでもあると考えたようだ。
私は先見の明とか、広告法、さらには人心をつかむ気合い術、暗示を生かす催眠術など商売人として生き抜くために必要ないろいろなことを身をもって体得してきた。
私はあちこちと菓子店を見て回った。どこでも、狭い間口にぎっしり商品を並べている。こんな場所では、包装自体で客の目をとらえるほかはない。そのころ、キャラメル類の包装は、いずれも森永を真似て黄色のものが通り相場になっていた。しかし、私はマネを嫌って、一番目を引きやすく、しかも食欲を刺激するものを考え、あちこち並べ替えたりして、視覚効果の実験を行った。そしてグリコは赤箱と決めたのである。
結婚すると私は本業の薬屋に専念した。そして中学の講義録、さらには商売に欠かせない販売、宣伝広告、薬業などについて独学に励んだ。当時、佐賀市内にあった大坪書店から「商業界」を購読していたが、この本の注文は、私のほかもう一人、玉屋百貨店の前身丸木屋呉服店の支配人ということだった。
グリコを始めたのは40歳を過ぎてからである。したがって、少年時代も青年時代も田舎で過ごし、学問は全くの独学である。もともと菓子のことなどはズブの素人であったが、実地に臨んで現実と取り組み、努力し、工夫しながら一歩一歩を歩んできた。
私はやがて81歳になる。この年まで現役の社長をやっているのは、よほどの物好きか道楽者と言われても仕方あるまい。もともと好きな仕事ではあり、それに商売というものにはキリがないのだから致し方ない。もし、私から商売を取り上げてしまったら、いったい何が残ろう。趣味の少ない私にとって商売こそ私の生命であり、生涯かけた唯一の仕事である。幸い精神年齢では、若い者に決して引けはとらない。自慢ではないが、私の内臓器官に至っては40歳代だと医者が証明してくれた。これは一昨年の胆石手術の際にわかったことである。
家業に専念してから一年余りたった年の春、かねて商売の勉強にはぜひ一度大阪へ行ってみたいという念願がようやく叶うときが来た。佐賀の田舎では旧正月の1か月間は農閑期で、温泉場で遊んで過ごすのが習慣であったが、私はこの機会に大阪の初見物を実行することにした。休養と視察とそして商売を兼ねた旅行だったが、予想以上の収穫を得ることができた。
飴作りに失敗すれば、京都で寺参りの客を相手に「極楽豆」を売ろうという考えを持っていた。南禅寺の茶売翁の例に倣ったのである。グリコーゲンの事業化は、私にとっては背水の陣だったが、失敗したときの手だても計算に入れていたのである。
無名商品の販売方法として私はこう考えていた。「下から石をひとつずつ積み上げて山頂に達するより、逆に山頂から石を転がしたほうが勝負は早いかもしれない」。そこで、将来、一流商品になるべきグリコは、どうしてもまず一流商店から発売しようと決心した。これが三越参りのきっかけだった。何度となく足を運んだが、のれんを誇る三越では、海のものとも、山のものとも分からない新商品など、納入させてくれなかった。しかし、断られても断られても、私は三越に頼むことをやめなかった。私は三越で最初に売り出すことの利益を十分考えたからである。
よく考えてみると、健康な人間が病気予防の栄養剤など買うだろうか。買わないとすれば、どうすればいいか。そうだ、嗜好品として売るのだ。菓子の中にグリコーゲンを入れるのだ、という考えがついに固まったのである。そこへいくまで、私はいろいろな食品、たとえば佃煮、瓶詰、ふりかけゴマなどにグリコーゲンを入れて研究してみた。そして結局、飴菓子に混入することになったわけである。
私はこれほどの大商売になろうとは全く予想もしなかった。それだけに、あくまでも行き過ぎということを警戒した。生活も薬屋時代の質素な暮らしを続けた。そして、いつかは機会を得て大阪に進出したいという考えがあったので、その方に備えての備蓄を怠らなかった。
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生産能力の2倍、3倍にも達する注文が来るようになり、どうしても拡張が必要になった。しかし、商売はよく拡張で失敗する。形の上で大きくなったことに気を許して、万事にぬかりがちになるからだ。同時に、失敗と気づいたとき、精一杯の資金を使ってしまって、手元に必要な予備資金を持たないことが多い。資金計画は努めて綿密にした。
なるほど、グリコ・キャラメルなら、既存のキャラメル類におんぶされて、楽に伸びられるかもしれないが、それでは新しい栄養菓子を売り出す意義がない。それに既存商品を追い越すことは絶対にできないだろう。キャラメルではない新しい菓子が、グリコなのである。売り出す苦労は、覚悟の上のこと。簡単、剴切で語呂がよく、広告の原則にもかない、効果の上でも有利と判断したからである。
戦争は終わった。惨憺たる敗戦である。グリコの本拠もかくのごとく灰燼に帰した。しかし、我々は決してグリコの再生復興を疑ってはならない。工場も機械も、材料も商名も一切が焼け失せたが、ここにまだ、さすがの敗戦にも焼けなかった最大の資本がある。それはグリコという看板である。のれんである。名前である。これは過去30年間営々として築き上げてきた我々最大最高の資本である。
私はのどを締められる思いだった。「慌てるな!命がけの問題は宿題を解くような平静な気分でやれ」と自分に言い聞かせ、淀川に釣りに出かけた。その翌日も同じように出かけ、淀川の大きな流れを見ているうちに、水の中に北浜の銀行街が浮かんできた。「そうだ、大銀行にイチかバチかの体当たりで頼むのだ。死んだ気で頼めばきっと聞いてくれるに違いない」。
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