福沢諭吉
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人生本来戯れと知りながら、この一場の戯れを戯れとせずしてあたかも真面目に勤め、貧苦を去って富楽に志し、同類の邪魔せずして自ら安楽を求め、五十、七十の寿命も永きものと思うて、父母につかえ夫婦相楽しみ、子孫の計をなし、また戸外の公益を謀り、生涯一点の過失なからんことに心掛くるこそ、うじ虫の本分なれ。否、蛆虫のことにあらず、万物の霊として人間の一人誇るところのものなり。
人生、万事、小児の戯れ。
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今の時代において何を善とし何を悪とするかと尋ねられれば、人に対して、その人の好まないことを仕向けないのが善であり、それと反対の行為が悪であると答えよう。
賢人と愚人の違いは学ぶか学ばないかによって決まるのである。
2
かくして、人たるものは、他人の権利の妨げさえしなければ、自由に行動すべきで、他人の利害に関係せぬ以上は、はたからあれこれ口を出されるいわれはない。好きなところへ行き、いたいと思う場所にとどまり、遊ぼうと働こうと、遊ぼうと寝ていようと、それは本人の勝手なのである。
生まれるということは死ぬということの約束であって、死も格別驚くことではない。
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自分の力を発揮できるところに、運命は開ける。
4
読書は学問の術であり、学問は事業の術である。
一家の生計を立てるのも学問です。商売をするのも学問です。時代の動きを察知するのもまた学問なのです。和漢洋の書物を読むことだけが学問であるという考え方は正しくありません。
今年がだめであったら、また来年に期待しましょう。
無知無学な民ほど哀れな、そしてまた不快なものはありません。知恵がないということは、結局は恥を知らないということに行き着きます。自分の無知から貧窮に陥り、飢えや寒さに苦しむようになると、自分自身を反省せずに、周囲の金持ちを恨み、極端な者は、徒党を組んで強訴一揆などの暴動を起こすこともありました。恥を知らないと言いましょうか、法を恐れないと言いましょうか。国の法律によって自分の身の安全を保ち、無事に一家の生計を立てていながら、利益だけは受けて、私欲のためとなればすぐに法を破るというのは、なんと筋道の通らない話ではありませんか。
やってもみないで、「事の成否」を疑うな。
しかるにかの凡俗の俗世界に貴賎貧富、栄枯盛衰などとて孜々たるバッタがにわかに秋風の寒きに驚くがごとく、おかしくもまた浅ましき次第なれども、すでに世界に生まれでたる上は、うじ虫ながらも相応の覚悟なきを得ず。
人間がもともと持っている、苦労を避けて安楽を好むという心をそのまま成長させていけば、善に従う道につながるであろう。やたらに悪いことをしようとして苦労する人は、不徳というよりもむしろ無知と評すべきである。
他人の迷惑にならない「欲望」は、すべて善である。
人望はもとより力量によりて得べきものにあらず。
学問を志した以上、大いに学問に励むべきだ。農業に就くなら豪農に、商業に入るなら大商人になりたまえ。学生は小さな安定に満足してはならない。粗衣、粗食、寒暑に耐え、米をまき、薪を割り、それでも学問はできるのである。
6
カゲロウは朝に生まれて夕に死すというといえども、人間の寿命に比べてさしたる相違にあらず。蚤と蟻と背比べしても、大衆の目より見れば大小なく、一秒時の遅速を争うも百年の勘定の上には論ずるに足らず。されば宇宙無辺の考えをもってひとり自ら観ずれば、日月も小なり、地球も微なり。まして人間ごとき無知無力、見る影もなきうじ虫同様の小動物にして、石火電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中、たちまち消えて痕なきのみ。
知識や見聞を広めるためには、あるときは人の意見を聞き、あるときは自分自身の力の限りを尽くして考え、あるときは書物も読まなくてはなりません。ですから、学問をするためには文字を知ることが必要なのですが、昔から世間の人が思ってきたように、ただ文字を読むことだけが学問だというのは大きな間違いです。
努力は、「天命」さえも変える。
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