福沢諭吉
1
人に貴賎はないが勉強したかしないかの差は大きい。
0
自ら動こうとしないものを、導くことはできない。
人生は芝居のごとし、上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。とかく、あまり人生を重く見ず、捨て身になって何事も一心になすべし。
2
国の文明は、形で評価してはなりません。学校といい、工業といい、陸軍といい、海軍といい、すべて文明の形だけです。この形を作るのは、さほど難しくありません。これらはただ金で買えますが、ここにもうひとつ、無形の物があります。その物というのは、目に見えず、耳に聞こえず、売買できず、貸借できず、すべての日本人の内にあってその作用は大変に強く、この物がなければ、学校以下の形ある文明も実際の役に立ちません。まことに、それは、文明の精神とも言うべき最も重要な物です。その物とは何でしょうか。私は、人民の独立の気力、これこそが、文明の精神であり、最も重要な物だと考えます。
自分の悪かったことに気が付いて改めるというのは立派なことだ。
9
学問の本趣意は読書のみにあらずして、精神の働きに在り。
6
独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は、必ず人を恐る、人を恐るる者は、必ず人にへつらうものなり。
ひとこと忠告したい。後進の青年諸君。もし他人の仕事に不満だったら、自分でその仕事を試みてみたまえ。他人の商売のやり方がまずいと思ったら、自分でその商売をやってみたまえ。隣家の生活がずさんに思えたら、自分の家で試してみたまえ。
「額に汗して食らう」とは我々が片時も忘れてはならない教えである。たとえどんな身分の人であっても、この世に生きていく限りは、生きるのに必要な衣食を得るための労働をしなければならない。人間の世界は、労働と物品とを交換して商売するという世界であり、これに決して逆らってはならない。
愚民の上に苛酷な政府がある。良民の上には良い政府がある。
碁・将棋の晴れの勝負に、ぜひとも勝とうとする人はかえって敗北して、無心の人が勝利することが多い。その理由は、勝負を軽く見るのと重く見るのとの違いで、無心の人は、もともと晴れの勝負を晴れと思わず、これくらいの争いに負けてもどうということはないと覚悟しているので、決断が速く駆け引きも活発になるのである。
独立の気力のない者は、必ず他人を当てにします。他人を当てにする者は、他人の言動にびくびくして恐れます。他人を恐れる者は、必ず他人にお世辞を使います。いつも他人を恐れ他人にお世辞を使っている者は、だんだんそれに慣れてツラの皮が厚くなり、恥ずべき事も恥じず、言うべき事も言わず、人に会えば、ひたすら腰を低くしてペコペコするようになってしまいます。よく言う「習い性となる」というのはこうしたことで、一度身に付いた習性は、そう簡単には直りません。
顔色や容貌をいきいきと明るく見せることは人間としての基本的なモラルである。なぜなら人の顔色は家の門口のようなものだからである。広く人と交際して自由に付き合うには門をひらき入口を清潔にし、客が入りやすくすることが大事である。ところが、本心は人と交際を深めたいのに顔色に意を用いず、孔子の格言を信じてことさら渋い顔つきを示すのは入口にガイコツをぶら下げ門前に棺桶を置いているようなものである。これでは誰も近づかなくなる。
8
人間の一生というのは、見る影もないウジ虫と同じで、朝の露の乾く間もない50年か70年の間を、何とはなしに遊びながら生きて、やがて死んでいくまでのことだから、自分の身をはじめすべての物事を軽く見て、やたらに真面目すぎないほうがよい。
3
深山幽谷に隠れ住んでいわゆる仙人にでもなれば別の話だが、いやしくも同じ人間の仲間が集まって浮世の衣食住を共にする以上は、自分の一身一家を維持すると共に、仲間の人たちに対する義務も果たさなければならない。
自由とわがままの違いは他人を妨げるかどうかである。
人望は、力量によって得られるものではありません。また、財産をたくさん持っているということで得られるものでもありません。その人の才能と知恵の活発な働きと正直な道徳心によって、徐々に得られるものなのです。
浮世を棄つるは、即ち、浮世を活発に渡るの根本なると知るべし。
独立の気力のない者は、国を愛する気持ちも希薄である。外国から自国を守るには、自由独立の気風を全国に充満させ、国中の人たちが、身分上下の別なく、国の問題を自分の問題とし、知恵や身体の障害の有無にかかわらず、それぞれ国民としての務めを果たさなければなりません。
苦は楽の種で、楽は苦の前兆である。
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