福沢諭吉
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自分の考えだけで、他人を評価してはならない。
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古典の「古事記」を暗記していてもこんにちの米の値段を知らないのでは、日常生活の知識すらない男というほかない。中国の古典の奥義をきわめても商売のやり方を知らず、取引ひとつできぬようでは、収支の知識の問屋にすぎない。それではめし食べる辞書であり国のためには無用の長物国家経済にとっては、有害な穀潰しと言っていい。
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学問の本質は学問を自分がどう活用できるかにかかっている。現実社会に応用できないような学問は無学と言われても当然である。
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自由とわがままとのさかいは、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。
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難きを見て為さざるは、丈夫の志にあらず。
みだりに人を軽蔑する者は、必ずまた人の軽蔑を免るべからず。
人間がもともと持っている、苦労を避けて安楽を好むという心をそのまま成長させていけば、善に従う道につながるであろう。やたらに悪いことをしようとして苦労する人は、不徳というよりもむしろ無知と評すべきである。
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無知無学な民ほど哀れな、そしてまた不快なものはありません。知恵がないということは、結局は恥を知らないということに行き着きます。自分の無知から貧窮に陥り、飢えや寒さに苦しむようになると、自分自身を反省せずに、周囲の金持ちを恨み、極端な者は、徒党を組んで強訴一揆などの暴動を起こすこともありました。恥を知らないと言いましょうか、法を恐れないと言いましょうか。国の法律によって自分の身の安全を保ち、無事に一家の生計を立てていながら、利益だけは受けて、私欲のためとなればすぐに法を破るというのは、なんと筋道の通らない話ではありませんか。
今年がだめであったら、また来年に期待しましょう。
学問の本質は、生活にどう活用するかということです。活用のない学問は、何も学問しなかったのと同じです。
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自分の力を発揮できるところに、運命は開ける。
人生、万事、小児の戯れ。
かくして、人たるものは、他人の権利の妨げさえしなければ、自由に行動すべきで、他人の利害に関係せぬ以上は、はたからあれこれ口を出されるいわれはない。好きなところへ行き、いたいと思う場所にとどまり、遊ぼうと働こうと、遊ぼうと寝ていようと、それは本人の勝手なのである。
今の時代において何を善とし何を悪とするかと尋ねられれば、人に対して、その人の好まないことを仕向けないのが善であり、それと反対の行為が悪であると答えよう。
賢人と愚人の違いは学ぶか学ばないかによって決まるのである。
国と国とは同等ですけれども、国民に独立の気力がなければ、独立国家としての権義を世界に広めることなど、到底、不可能です。
人生本来戯れと知りながら、この一場の戯れを戯れとせずしてあたかも真面目に勤め、貧苦を去って富楽に志し、同類の邪魔せずして自ら安楽を求め、五十、七十の寿命も永きものと思うて、父母につかえ夫婦相楽しみ、子孫の計をなし、また戸外の公益を謀り、生涯一点の過失なからんことに心掛くるこそ、うじ虫の本分なれ。否、蛆虫のことにあらず、万物の霊として人間の一人誇るところのものなり。
カゲロウは朝に生まれて夕に死すというといえども、人間の寿命に比べてさしたる相違にあらず。蚤と蟻と背比べしても、大衆の目より見れば大小なく、一秒時の遅速を争うも百年の勘定の上には論ずるに足らず。されば宇宙無辺の考えをもってひとり自ら観ずれば、日月も小なり、地球も微なり。まして人間ごとき無知無力、見る影もなきうじ虫同様の小動物にして、石火電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中、たちまち消えて痕なきのみ。
学問を志した以上、大いに学問に励むべきだ。農業に就くなら豪農に、商業に入るなら大商人になりたまえ。学生は小さな安定に満足してはならない。粗衣、粗食、寒暑に耐え、米をまき、薪を割り、それでも学問はできるのである。
人望はもとより力量によりて得べきものにあらず。
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