吉田松陰の名言
思想家、長州藩士
吉田松陰の名言。全181個。
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多くの努力を注ぎ込んだことは、すぐにその功績を手中にすることはないかもしれない。しかし、全精力を集中して学んだものは生涯忘れないであろう。
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平凡で実直な人間などいくらでもいる。しかし、事に臨んで大事を断ずる人物は容易に求めがたい。人のわずかな欠陥をあげつらうようでは、大才の士は、もとめることが出来ない。
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敵が弱いように、敵が衰えるようにと思うのは、皆、愚痴もはなはだしい。自分に勢いがあれば、どうして敵の勢いを恐れようか。自分が強ければ、どうして敵の強さを恐れようか。
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賞誉されて忠孝に励む人は珍しくない。責罰されてもなお忠孝を尽す人物こそ、真の忠臣孝子である。武士たるものが覚悟すべきこと、実にこの一点にある。
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他人が何と言おうと、死を求めることなく、死から逃げることなく、牢に入っては牢で出来ることをし、牢を出てはそこで出来ることをするだけだ。
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人を信ずることは、もちろん、遥かに人を疑うことに勝っている。わたくしは、人を信じ過ぎる欠点があったとしても、絶対に人を疑い過ぎる欠点はないようにしたいと思う。
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自分の価値観で人を責めない。一つの失敗で全て否定しない。長所を見て短所を見ない。心を見て結果を見ない。そうすれば人は必ず集まってくる。
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君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。
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大事なことを任された者は、才能を頼みとするようでは駄目である。知識を頼みとするようでも駄目である。必ず志を立てて、やる気を出し努力することによって上手くいくのである。
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一つ善いことをすれば、その善は自分のものとなる。一つ有益なものを得れば、それは自分のものとなる。一日努力すれば、一日の効果が得られる。一年努力すれば、一年の効果がある。
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英雄はその目的が達成されないときには悪党や盗人とみなされるものだ。世の中の人から馬鹿にされ、虐げられたときにこそ、真の英雄かどうかがわかる。
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世の中には体は生きているが、心が死んでいる者がいる。反対に、体が滅んでも魂が残っている者もいる。心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある。
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利をうとんずるといふ事は、必ずしも富を厭ひ貧を欲するといふ事ではない。貧富によりて少しも心をみださないといふことである。
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どんな人間でも一つや二つは素晴らしい能力を持っているのである。その素晴らしいところを大切に育てていけば、一人前の人間になる。これこそが人を大切にするうえで最も大事なことだ。
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今の世の中、優れた人物がいないと人は言うが、上の者が優れている人物を好むということさえすれば、人物がいないことを心配する必要はない。
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人を観察するのは、その人の目によってするのである。胸のなかが正しいか、正しくないかは、ひとみがはっきりしているか、暗いかによってわかるものである。
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道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。
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花は満開となれば、やがて落ちる。太陽は南中すれば、やがて陰りはじめる。人は壮年を迎えれば、やがて老いていく。百年の間、必死で勉強すべきであり、ゆったりとくつろぐ暇などはない。
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決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるかできないかということを忘れなさい。
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学問ばかりやっているのは、腐れ儒者であり、もしくは専門馬鹿、または役立たずの物知りに過ぎず、おのれを天下に役立てようとする者は、よろしく風の荒い世間に出て、なまの現実を見なければならない。
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法律をやぶったことについてのつぐないは、死罪になるにせよ、罪に服することによってできるが、もし人間道徳の根本義をやぶれば、誰に向かってつぐないえるか、つぐないようがないではありませぬか。
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宿命は、人の力や智恵が及ぶものではない。だから、この原因を天に任せ、天命というのである。天命であるからには、それは全て天に任せ、人は一途に人として踏み行うべき道を守りさえすればいい。
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勉強しない人の気持ちには3つある。ひとつ目は、「年をとりました」と。ふたつ目は、「馬鹿ですから」と。そうでなければ、「私は才能が高く、もう学問は極めました」と。
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生を捨ててみれば、視界は雲なく露なくきわめて澄みわたり、世の現象がいかにもクッキリとみえ、自分が何をすべきかの道も、白道一筋、坦々として眼前にあります。
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学問は、自分の才能を見せびらかして、人を従わせるためのものではない。人を教育して、一緒によき人になろうとすることである。
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味方の協和が得られて、初めて地形の有利さも自然の条件も役に立つのである。それ故に国家の務めを論ずる場合には、まず味方の協和の問題を取り上げねばならない。
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立派な人の道において最も大切なのは義である。義は勇気によって行動に移され、勇気は義にふれることによりさらに大きく成長する。
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大義のために人と絶交することになったとしても、その人の悪口を言うのは忍びないことである。やむを得ず国を去る事になったとしても自分は潔白だったというのは忍びないことである。
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正しくある事ができるかどうか、事を成すことができるかどうかは、志があるかどうかによる。だから武士たる者は志を立てなければならない。志さえあれば、目標が遠く難しくても達成することが必ずできる。
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もし名誉や地位を得たならば天下国家を良い方向へ導くのがよい。もし困窮したら、自分の身を正すのがよい。自分の身を正しくしたあとに天下国家を良い方向へ導くのがよい。
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立派な人は何事にも道理にあうかどうかを考えてから行動に移す。つまらない人は何事にも得するかどうかを考えてから行動に移す。
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一ヶ月でできなければ、二ヶ月かけてでもこれを成し遂げたい。二ヶ月でもできなければ、百日かけてでもこれを成し遂げたい。それでも成し遂げられないのであれば、出来るまでやめない。
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師を求める前に、まず心から師につきたいという真摯な心が定まり、また、実事、つまり、このことを学びたいという具体的なことを確立させて、それから初めて師のもとを訪ね、師とすることを求めるべきである。
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読書の効果というものは、昼となく夜となく、ちょっとした時間でも惜しんで励むのでなければ、その効果を上げることはできない。
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立派な殿様、賢明な将軍であるか、あるいは、馬鹿な殿様、愚かな将軍であるか否かは、日ごろの生活において決まることである。つまり、日ごろの言葉や行いはそれぞれその人の遺言、臨終の時のいいつけと一緒である。
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賢明な君主や賢く優れた将軍など立派な上役というものは、まず心を決めるものである。上役の心が決まれば、部下たるもの、どうしてそれに従わないことがあろうか。
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君子に大切なことは、志と肝だけである。志がなく、肝がすわっていなければ、わずかな才能や知識があったとしても、何の役に立つであろうか。
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世に認められるかそうでないかは天命による。自分にとってはどうでもいいことである。自分が楽しいことをして楽しむ。それだけで満足なのだ。
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志を立てることを全ての始まりとして、交流する相手を選び正しく立派な行為を学ぶ。そして、書を読み偉人の教えを学ぶ。これらが出来た後、立派な人となるのだ。
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今は逆境だが、私には志がある。この地で過去いなかったような豪傑を一人二人見出し、天下に号令するような人物に育てることだ。
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人の心は上の命令に従わず、上の好みに従うものである。今上の地位にある者はこの事をよく考え、安易な方へ流れる欲を絶ち、戦場に身を置いているような気持ちで自ら実践するならば、命令をしなくても自ら従う。
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剛直でくじけず、自分を信じてくれた人に背かなければ、不幸にも、うまくいかなかったとしても、自分を信じてくれる者はますます多くなり、再び立ち上がった時には、思いをなし遂げることが必ずできる。
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大将は心が定まっていなければならない。もし大将の心が定まっておらず、ふらふらしている時には、その下にいくら能力がある者がいようとも実際に力を発揮することはできない。
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立派な人の行いは真面目で、正直であることが大切である。人を欺き、自分を偽る事は恥である。公平で正しい態度は全てここから始まる。
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どんな小さなことでも正しいか正しくないか、よいか悪いかという点において信念を失わないという頑固者でなければ、何をさせてもちょっとしたことしかできず、しっかりとしたことを行うことはできない。
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全ての能力が備わっていることを一人に求めてはいけない。小さな間違いを理由に人を捨てていては、素晴らしい才能を持った人を得ることはできない。
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人を用うるの法、大才能の人は始めより大任重職を命ず。しかしてその人また自ら奮励し、大いにその忠思をのぶること、なお時雨してこれが用たらず。
吉田松陰について
私塾「松下村塾」で、明治維新で活躍する高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、久坂玄瑞らを教えたことで知られる。老中暗殺を企てていたとして安政の大獄にて斬首された。