小林陽太郎
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企業が健全な利益を生むためには、顧客・従業員・社会・そして株主に対する責任を果たしていく必要があり、そのことがひいては、長期的な株主の利益を実現することになる。それが、ステークホルダーズ・マネジメントに徹するということだと思います。
私は慶應義塾大学を出て1956年に、ペンシルベニア大学ウォートンスクールに留学しました。何のビジネス経験もなしにビジネススクールに行くというのは無茶な話で、後輩たちにはビジネス経験をきちんと積んでから行くように話しています。
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ああいう議論は実に楽しいものだ。自分の考えを主張して戦わせないと、実のあるディスカッションにはならない。あの場で見せた精神を、ぜひ他の様々なところでも発揮してほしい。
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企業のリーダーにはさまざまなタイプの人がいて、彼らとの出会いを通じて「この人は素敵な話し方をしている」とか「あの人のスタッフへの対応の仕方はすばらしい。あのように言われたら話を聞かざるをえない」といった気づきが数多くある。だから若いときから、そういう機会をいろいろなかたちで数多く持ち続けることが重要であり、同時に我々が、若い人たちのために、そういう機会をつくることが非常に大切なのだ。
「モーレツからビューティフルへ」のキャンペーンも、「ゼロックスの複写機は性能はいいが高い」というイメージに対し、「高くない」と訴える泥臭い広告はあえてせず、「ゼロックス」という新進企業としてのイメージを発したものでした。
私はオリジナルな考え方があるというより、人の話をよく聞いて活かそうとしてきた。
最新の知識がいつぱいに詰まったハウツー書を、一所懸命に読みあさることに益はない、と言うつもりはない。だが、それらの本に書かれていることの大部分は、ある時期に限られたものであり、短期間で旬が過ぎ去ってしまう。その点、古典とは、短い旬を乗り越え、ある意味で「永遠の旬」とでも言ってもいいような普遍的な価値を持つ考え方だ。これからの若い世代のリーダーが、古典のエキスパートになる必要はない。また「広く物事を考えるためのベースとなる素養を、何によって身に付けていくのか」という問いに対して、古典がすべての回答であるとも思わない。しかし、古典は時代を越えて、自己観照のベースとなる視野を広げ、長いスパンで物事の本質をとらえることを可能にしてくれると私は思うのだ。
ビジネスのあり方はプロダクトアウトから、マーケットインへ進み、これからはソサエティインの世界へと入っていきます。マーケットの枠組みを超えて社会が必要とし、社会にとって価値あるものを探り提供していく。とすれば、データや数字以上に、社会を構成する一員である自分に対して正直であることが何よりも大切です。
学生時代は別にして、社会人になってから正面を切って古典にふれる人は、おそらく少ないのではないか。極端な話、古典はホコリをかぶって本棚に置かれているようなイメージを抱いている人が多いが、決してそうではない。現代に生き続けている古典とは、いくつもの時代を越えて、非常に長い「旬」を持ち続けている考え方であり、思想なのである。
我々も人間の集団でした。業績が上向くにつれ、内部に安心感が生じ、緊張感を継続するのが難しい状況が生まれていきました。
企業人としての経験を持たない人たちの視点に学ぶことは重要である。私が富士ゼロックスの社長を務めていたころは、新入社員教育にかなり時間をかけた。新入社員にとっては、社長に会い、直接ビジョンや信念を聞く機会だったかもしれないが、私にしてみれば「若い人たちは物事をそのように考えているのか」と気づかされることが多く、ものの見方を広げる上で非常に貴重な経験だった。
仕事は常に人間によって行われ、人間のつながりによって進行していくことを忘れてはならない。
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人間は、知識では測り知れないプラスアルファの部分、もしくは神秘さのようなものを数多く持っていると私は考えている。地位が高いとか低いということは関係なく、私たちは人間をそのような視点から見ていく必要がある。ゆえに知識と経験をふまえた上で、そこに自己観照という作業を加えて、時間とともに、人間を見る視点を磨いていかなければならない。
組織の上に立つ者が、まず頭を切り替えなければ、競争に勝てる戦略は生まれてこない。
かつて私は「長男とはこうあるべきだ」とか「一流企業の社員とはこうあるべきだ」というステレオタイプに、自分自身のあり方をはめ込んでいたのかもしれない。他の人に対して、「それは一流企業の社員としてふさわしくない」と口に出すことこそなかったものの、そういう考え方がいかに的外れであるかを、できたばかりのゼロックスで働いたことを通じて気づかされた。
経営にTQCを入れるということは、事業の現場で起こっている事実を正しく正しく認識し、優先順位を明確にしたうえで必要な対策を講じていくことにほかなりません。科学的、合理的な考え方に基づいて、経営を効率化するということです。
いわゆる企業のカルチャーとは非常に根深いものであり、さらに各企業が属する業種などによって、専門的な言葉が数多くある。同じ会社の人同士は当然として、同じ業種の人たちと話をしても、同質の人が集まって同質の議論をしているわけだから、「観照」という形にはあまりならない。ゆえに私自身の経験から言えば、企業人ではない最も身近な家族、すなわち奥さんや息子さん、娘さんなどのように「なぜ会社員は年中こんなに遅くまで働かなければならないの?」といった、きわめて素朴な質問をしてくる人たちに対し、「なるほど、分かった」と言ってもらえるような答えが出せるかどうかが、自分自身を客観的に見る上で大切だと思う。
会社にTQCにまず指摘されたのは「あなた方、経営幹部の言っていることは、社員の働きが悪いという愚痴ばかりだ」ということでした。これは私にとって強烈な言葉でした。確かに私の心の中にも、こんな強力なライバルの出現をなぜ現場の人間が見過ごしていたんだという気持ちがありましたから。先生の叱責を受けて「まず組織の上に立つ者が頭を切り替えなければ、競争に勝てる戦略は生まれてこない」と痛感しました。
私自身にしても、特に自分が人に関して下した判断が「最終判断として十分だ」と、いつになったら言えるのかはまったく分からない。だからこそ、常に進行している「ing」の中で、今の自分も自己観照を通じて人間を見る目を磨いていく過程にすぎないと思いつつ、さまざまな判断を下していかなければならないと、考えるようにしている。
当社は物事を合理的に考え、人の能力を最大限に引き出す経営を会社の柱に据えてきました。それはいま、当社の不変の遺伝子とも言える理念になっています。
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