小林陽太郎
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組織の上に立つ者が、まず頭を切り替えなければ、競争に勝てる戦略は生まれてこない。
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我々も人間の集団でした。業績が上向くにつれ、内部に安心感が生じ、緊張感を継続するのが難しい状況が生まれていきました。
経営にTQCを入れるということは、事業の現場で起こっている事実を正しく正しく認識し、優先順位を明確にしたうえで必要な対策を講じていくことにほかなりません。科学的、合理的な考え方に基づいて、経営を効率化するということです。
ビジネスのあり方はプロダクトアウトから、マーケットインへ進み、これからはソサエティインの世界へと入っていきます。マーケットの枠組みを超えて社会が必要とし、社会にとって価値あるものを探り提供していく。とすれば、データや数字以上に、社会を構成する一員である自分に対して正直であることが何よりも大切です。
「モーレツからビューティフルへ」のキャンペーンも、「ゼロックスの複写機は性能はいいが高い」というイメージに対し、「高くない」と訴える泥臭い広告はあえてせず、「ゼロックス」という新進企業としてのイメージを発したものでした。
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会社にTQCにまず指摘されたのは「あなた方、経営幹部の言っていることは、社員の働きが悪いという愚痴ばかりだ」ということでした。これは私にとって強烈な言葉でした。確かに私の心の中にも、こんな強力なライバルの出現をなぜ現場の人間が見過ごしていたんだという気持ちがありましたから。先生の叱責を受けて「まず組織の上に立つ者が頭を切り替えなければ、競争に勝てる戦略は生まれてこない」と痛感しました。
当社は物事を合理的に考え、人の能力を最大限に引き出す経営を会社の柱に据えてきました。それはいま、当社の不変の遺伝子とも言える理念になっています。
企業が健全な利益を生むためには、顧客・従業員・社会・そして株主に対する責任を果たしていく必要があり、そのことがひいては、長期的な株主の利益を実現することになる。それが、ステークホルダーズ・マネジメントに徹するということだと思います。
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私はそんなスーパーな存在ではない。たまたま会社が始まった頃、当時では珍しいMBAを持っていたのと、若くして日本や欧米の立派な経営者と会うことができ、多くを学ぶ機会に恵まれただけです。
シェアが急落する過程でも、我々はライバルの力を正当に評価することができませんでした。リコーの機械は確かに安い。しかし、うちの製品に比べたら、性能や信頼性がまだまだ劣るはずだ。そうでないなら、採算度外視の安売りに違いない。そうした見方が社内の大勢を占めていました。
私は慶應義塾大学を出て1956年に、ペンシルベニア大学ウォートンスクールに留学しました。何のビジネス経験もなしにビジネススクールに行くというのは無茶な話で、後輩たちにはビジネス経験をきちんと積んでから行くように話しています。
石油ショックのとき、当社は国内コピー機市場でのシェアを大きく落としました。それまで60から70%のシェアを握っていたのに、50%をあっさり割り込んでしまった。攻勢を仕掛けてきたのは、後発メーカーのリコーさんでした。なぜリコーに顧客を奪われたのか。直接の原因はリコーが安くて優秀な製品を投入してくる中で、当社が安易に値上げしたことにあります。不況が深刻化し、顧客企業の経営も苦しくなっているのだから、本当はぐっと我慢すべきでした。
社長に就任してまもなく、デミング賞にチャレンジするかどうか迷ったことがありました。全社的に品質管理に取り組んでおり、さらなる前進に向けて気持ちが高揚していた時期です。様々なことを考えた末、雑念を捨てて踏み出すことに決め、授賞に至りました。
企業のリーダーにはさまざまなタイプの人がいて、彼らとの出会いを通じて「この人は素敵な話し方をしている」とか「あの人のスタッフへの対応の仕方はすばらしい。あのように言われたら話を聞かざるをえない」といった気づきが数多くある。だから若いときから、そういう機会をいろいろなかたちで数多く持ち続けることが重要であり、同時に我々が、若い人たちのために、そういう機会をつくることが非常に大切なのだ。
素心深考。その文字が表わす通り、素直な心で、しっかり考えるという意味です。とにかく考える前に早く行動しろといったことが尊ばれる現代だからこそ、あえて時間をかけて思慮することを大切にしたい。そのためには、心のありようが素直なことが不可欠なのです。
最新の知識がいつぱいに詰まったハウツー書を、一所懸命に読みあさることに益はない、と言うつもりはない。だが、それらの本に書かれていることの大部分は、ある時期に限られたものであり、短期間で旬が過ぎ去ってしまう。その点、古典とは、短い旬を乗り越え、ある意味で「永遠の旬」とでも言ってもいいような普遍的な価値を持つ考え方だ。これからの若い世代のリーダーが、古典のエキスパートになる必要はない。また「広く物事を考えるためのベースとなる素養を、何によって身に付けていくのか」という問いに対して、古典がすべての回答であるとも思わない。しかし、古典は時代を越えて、自己観照のベースとなる視野を広げ、長いスパンで物事の本質をとらえることを可能にしてくれると私は思うのだ。
いまは、まさに玉石混交の状態で、情報が氾濫する時代であり、さらにそれらを分析した二次情報、三次情報も容易に手に入れることができる。ゆえに、よい情報さえ得られれば、あたかもそこに答えがあるように思えてしまい、考えずに動く人が増えているようです。
学生時代は別にして、社会人になってから正面を切って古典にふれる人は、おそらく少ないのではないか。極端な話、古典はホコリをかぶって本棚に置かれているようなイメージを抱いている人が多いが、決してそうではない。現代に生き続けている古典とは、いくつもの時代を越えて、非常に長い「旬」を持ち続けている考え方であり、思想なのである。
行動は大切ですが、ものごとを深く考えなくてもよいと思っている人も多いのではないでしょうか。しかし、周りに飛び交う情報が多ければ多いほど、本当は考えなくてはいけない。取捨選択したうえで、さらに答えを探るべく、深考することが求められている時代なのだと思います。
企業人としての経験を持たない人たちの視点に学ぶことは重要である。私が富士ゼロックスの社長を務めていたころは、新入社員教育にかなり時間をかけた。新入社員にとっては、社長に会い、直接ビジョンや信念を聞く機会だったかもしれないが、私にしてみれば「若い人たちは物事をそのように考えているのか」と気づかされることが多く、ものの見方を広げる上で非常に貴重な経験だった。
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