鍵山秀三郎
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戦国時代に蒲生氏郷という武将がいました。豊臣秀吉に仕えた名将で、外様の伊達政宗を抑える役目を任され、秀吉の命により畿内から会津若松に領地替えとなりました。ところが、政宗との軋礫もあり、その上新参の領主ですから、周りの大名からしょっちゅう攻められる。必死で防戦するのですが、いくさに勝っても領地が増えるわけではありませんから、次第に家臣に褒美がやれなくなります。そのときに氏郷はどうしたかというと、褒美をやるべき家臣を一人ひとり呼んで、自分の屋敷の風呂に入れたのです。風呂を焚くのは氏郷自身。律儀な氏郷はわざわざ「湯加減はどうだ」と声をかけるのです。家臣たちはどんな褒美をもらうよりも感激したので、このもてなしは蒲生風呂として有名になりました。条件よりも配慮があれば、厳しい状況の中でも人はついてくるのです。
大局の誤りは、小局の努力によってカバーすることはできない。
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自分の損得や経済第一ではなく、使命感を持って大事なことを守ろうとする人たちが健在である限り、日本は大丈夫。
私は、みずからの才能がなかなか発揮できないことを、環境のせいにしたり時代のせいにしたりしている限り、その人は絶対に日の目を見ないのではないかと思います。まずは自分を取り巻いている条件をすべて受け入れる。そしてその中で自分は何ができるかを焦らずに考えることが必要です。
人間としての第一の条件は、まず謙虚であることだと思います。その点、トイレ掃除をすると、自然に謙虚な気持ちになります。トイレ掃除をして傲慢になったという話は聞いたことがありません。
私どもの会社では、弁当を取れば残ったものはゴミとしてきれいに分別し、容器は洗って返す。「なんでそんなことまでするんですか」という人もおりますが、これすべて人格づくりと思っているんです。社員に人格、人柄が下劣になるようなことはしてもらいたくないし、またさせたくないからです。
私だって一個人、一経営者として財が欲しかった。しかしただ財を取るだけなら誰でもできると思って、その正しい手段を考えていました。それからもう一つは、手当たりしだい売上にこだわる会社にはしたくなかった。いろいろな会社を見てきて、あんな会社にはしたくないという会社がいっぱいありました。
人間は毎日見ているもの、接しているものに気持ちが似ていく。
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一つや二つ拾ったってしょうがないじゃないか。という考えではなく、一つでも二つでも拾えば、それだけ世の中がきれいになる。そういう考えです。
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最近、私が憂えていることがあります。それは日本全体の、というより世界全体の潮流なのですが、自分の責任に帰すべきことを他人の責任に転嫁する例をたくさん見かけることです。個人のレベルに限らず、国同士でも「自国は悪くない、他の国が悪い」と言ったりしているぐらいです。誠に悪しき潮流です。その悪しき潮流を変える元になりたいという願いから、私はいまの活動に取り組んでいるといっても過言ではありません。こういう道義的な問題の解決を政治家に求めたり、行政に求めたりしても何も変わりません。
私は社風をよくするために、大きな犠牲を払いました。たとえば、売上の6割近いお得意先との取引をお断わりしました。たくさん買ってくれて支払いもよい、ただ法外なわがままも言うお得意先でした。なぜお断わりしたかというと、社員がその仕事を維持するために苦労し、だんだん卑屈になってきたからです。先方は嵩にかかって無茶を言う。本当ははらわた煮えくり返っているのに、へつらって仕事をしないといけない。ただ売上と利益を上げるだけなら社員に、「商売だから、それくらい我慢しろ」と言います。でも、そんな我慢を強いることは、私にはできなかった。だから取引をやめました。
〈知〉と〈痴〉という字があります。〈知〉はともかく、〈痴〉については、だれもが「こんなものはいらない」と言う。けれども私は、人間とはこの〈知〉とく痴〉の両方をあわせ持たないといけないと思うのです。ところが今は〈知〉ばかり。これはたしかに必要なのですが、〈知〉だけでは人間は幸せにならないのです。なぜかというと、人に対する思いやりを失っていくからです。むしろ、〈痴〉のほう、すなわち愚直さを持っている人のほうが人に対する思いやりがある。それが貴いのです。
今の時代は、あまりにも結果を早急に求めすぎるためにテクニックに走り、じっくりと考える力や耐える力を養うことがおろそかになっています。人間として、一番大事な教育が欠落している。私には自分が根本から鍛えられる生き方をしない限り、自分の真の才能を見つけ出すことはできないのではないかと思えるのです。
一流大学を出た政治家と新幹線で乗り合わせたことがありますが、彼らは向かい合わせに椅子を倒し、飲み食いをした後、椅子を元に戻すわけでなく、後片付けもせずに降りていった。こんな人間はどんなに有名でも、地位が高くとも、人間としての評価はできませんね。世の中を良くしたいのであれば、人のものまで持って降りるくらいの気持ちが欲しいと思います。
「企業の社会的責任」とは、利益を追求し納税の義務を果たすことを根底としながら、あらゆるステークホルダーからの要求に対して、適切な意思決定をすることであります。表現は一様ではないものの、概ねこのような考え方といってよいでしょう。このステークホルダーの中には社員も入るわけですが、私は社員を立派な社会人として成長させるという社員に対する社会的責任を唱える経営者が少ないことを嘆くのです。
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私は、あとを継ぐ経営者が楽になるように経営をすることが大事だと思っています。自分の任期では実績が悪くなっても、将来のために今こそ投資するべきだということならば、自分の評価はさておき、未来のために決断する。
心あるところに宝あり。
生きていくうえで、難しいことばかりが役立つとはかぎりません。むしろ、毎日の生活では、雑用と呼ばれることがそのほとんどを占めています。身辺の雑用処理能力を磨くことこそ、人生の達人への近道だと思います。
夢を叶えるためには、大きなことより、むしろ日常の些細なことが大切。
価格だけが競争ではありません。もちろん、お客様にとっては安ければ安いほどよいことです。しかし、ただ安ければよい、というだけのお客様ばかりではありません。価格よりも、より質の高いサービスを求めてこられるお客様も必ずいらっしゃいます。価格競争をする前に、サービスを見直すことが先決です。
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