アラン
9
幸福になることはまた、他人に対する義務でもある。
2
力いっぱい戦ったあとでなければ負けたといってはいけません。これはおそらく至上命令です。
0
不信の力とは、宣託を聞こうとしないことである。聞けば少しは信用するに違いない。
実際には、幸福や不幸の原因というものはなんでもないのだ。いっさいは我々の肉体とその作用とにかかっている。そしてどんな頑丈な体格だって毎日、緊張から沈滞へ、沈滞から緊張へと、しかもたいがいは食事や、歩行や、注意の努力、読書、天気の具合などにつれて、移っていくものである。君の気分は、それによって上下すること、まるで波の上の舟と同じことだ。そういうものはたいていは取るに足りないものである。何かしているあいだは、少しも気にならない。ところが、それを考える暇ができ、丹念に考えだすと、たちまち小さな理由が大挙して押しよせてくる。
1
幸福になろうと欲しなければ、絶対に幸福にはなれない。
4
握ったコブシを開けば、怒りも消える。
誰だって強いられた仕事は好きではない。好きでやっている仕事は楽しみであり、もっと言えば幸福である。
戦争が欲せられたものではなく、常に余儀なくされたものだと思うがゆえに、戦争の聖なる旗印を自分の回りに探す。
死におそわれるのは生者のみであり、不幸の重荷を考えるのは、幸福な人たちのみである。
3
太っ腹に相手を信用してかかり、美点をさがすのでなければならぬ。人間に期待をかける人こそ、もっともよく報いられるものである。
敵か、それとも味方か。私が攻撃すれば、敵になる。私がなんの恐れもいだかず、微笑してみせれば味方になる。
7
気分に逆らうのは、判断力の問題ではない。判断はこの場合なんの役にも立たない。そうではなく、態度を変えて適当な運動をやってみる必要があるのだ。というのは、我々自身のうちで、筋肉というモーターが我々の支配しうる唯一の部分だからである。微笑や、首をすくめることは、心労に対する天下周知の操作である。
幸福とは贈りあうことによって増えていく宝である。ひとこと、親切な言葉を、心からの感謝の言葉を言ってごらん。
8
どんな平凡な俗人でも、自分の不幸を真似ると大芸術家である。よく言うように心が締め付けられるときには、腕で自分の胸を締め上げ、あらゆる筋肉が互いに突っぱりあう。敵なんかいもしないのに、歯をくいしばり、胸を守り、拳をふりあげる。こういう大げさな身振りは、外にあらわれないときでさえも、じっと動かない肉体の内部でやはり行われているのであって、そのためにいっそう大きな影響を生ずるものなのだ。
彼は決心した、というのはいい言葉だ。一語で、決心と解決という二つの意味を示している。
期待を抱くこと、それはつまり幸福であるということなのだ。
宿命論が後悔を追い払うのは、人ができることをすべてし尽くした場合に限る。
われわれは、現在だけを耐え忍べばよい。過去にも未来にも苦しむ必要はない。過去はもう存在しないし、未来はまだ存在していないのだから。
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恐怖には、恐怖に対する恐怖というものしかない。
幸せだから笑っているのではない。むしろ僕は、笑うから幸せなのだ。
アランのすべての名言