井上雄彦
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相手に合わせて、相手の距離で戦っていると、自分が戦いのイメージを先取りできない、ゲームを作れない感じになってしまう。逆に相手は先の予測がついてしまう。面白い漫画って、読者が「この主人公、いったいどうなるんだ?」って思うものですけど、それができている時は、作者の方が自分の間合いで戦っている感じなんですよ。
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山に登るという感じですよね。一回入らないといけないんで日常から切り替えて。
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心の在りようだと思います。心の静かな感じの時は割りとすんなり描けます。
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マンガの絵は、どこか「分かったつもり」で描いている。そうじゃないと描けないんです。「こういう顔なんだ、こいつは」というのを決めないと成立しない。でもずっとそれをやっていると、「何かがくっついちゃっている状態」になっちゃう。
おてんとうさまに身を委ねて、何かしら良い物ができたらいいなと思っています。
体を動かすとか、散歩しているだけでも、絶対にいろいろなことに気づくと思うんです。歩くのは意外に大事なことですよ。歩いているとやっぱり見えてくるものが違ってきます。自分も歩きながらアイデアとか、ネームとか、よく考えています。
自分の内側を掘ったら結構広いというか普遍というか広いスペースがあるんじゃないか…。
「リアル」は「普通のもモノ作り」といえばいいんでしょうか。材料が目の前にいくつかあって、僕はそれを料理するというか、組み立てる。そういう工程が「リアル」なんですね。
絵を描くこと自体が楽しい、そういう瞬間もありましたね。
読者のレスポンスは先の展開にも作用します。それは、「読者の要望に応える、顔色をうかがう」といったものではなく、より創造的なやり取りになっていく。面白い漫画の場合はきっと、作者が一方的に作っているものを見せているというより、作者と読者が一緒に作っている感覚が生まれるんでしょうね。
スラムダンクのラストのときのような状態に自分が入っていくことを期待して、いろいろまわりから作っていったけれど、そうはならなかった。結局ワクワクしてこなかったんです。まだ「そのとき」ではなかったんでしょうね。僕が勝手に、「今がその時」と決めつけていたんでしょう。
どんだけこの作品で成長させてもらったってこととか、すごいひしひしと感じる。
自分に対して「本当にそれは自分かよ」と問うた時に、ちゃんと「そうです」って答えられるようでありたいですよね。
僕の心の内側で、ガウディと共有できる部分があるとしたら、自然に対する畏怖の念や、絶対的な信頼じゃないかと思います。
終わると分かってから色々な思いって出てきますよね。
最初の頃とかは、どんな反応をされるとか、まさにわからないで描いていたりするので。自分が思った以上に周りが反応してくれているっていうのはありました。
いかに分かった気にならないかが、楽しく描けるかどうかの分かれ道。
僕が今、「一番売れているのは「ONEPIECE」だから、「ONEPIECE」っぽくしよう」みたいなことをやったら、きっととんでもないことになる。僕が、あるいは他の作家さんが「ONEPIECE」になろうとする必要は全然ない。それと同じで、漫画じゃなくてもどんな人にでも当てはまると思うけど、何か他のものになる必要はない。その人が見つけた自分の必然に従えばいい。
昔、すごく調子が良かった時に5時間で3話分できたことがあった。
生きるとは…的なことだったりとか今の時代に受けようっていう気持ちももちろん勝負論の中でありますけど、でももっと大事なのは何年経っても、どの世代でも、何か普遍的なものがあるっていうことが大事だと思っているんでね。
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