奥田碩
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グローバルスタンダードなどというおかしな言葉に振り回されてすべてを他国と一緒にしてしまっては国際競争に勝てない。
戦後の日本は物質的、経済的豊かさばかりを追求して、心の豊かさを求めてこなかったけれども、ここで心の豊かさを取り戻さないと、日本の社会のバランスはおかしくなります。その意味で、生きること、死ぬことの両方を考えて、人生を見つめなおしていくことだと思います。死について考えることが、人生をよりよく生きることになると私は思っています。
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バブルの最も重大な後遺症は企業経営者の精神的な荒廃であるのかもしれない。自分の会社の利益、株主の利益しか考えず、従業員の幸せや企業の社会的責任、幅広い関係者との調和、あるいは経済や国全体の利益を考えないトップは「経営者」と呼ぶに値しない。「経営屋」にすぎない。
目先の変化や表面的な動きに惑わされることなく、変化の本質を把握したうえでスピーディーに行動することが重要です。時代からの時代にかわりつつある中、「決断」「実行」をいかに俊敏にできるかが成功の鍵となります。
大混乱も起きるかもしれません。それを乗り越えなくては次の時代というのは来ないと思います。飢え死にする人や凍死者もいた戦後間もなくの日本ならば、確かに格差は認めにくい側面もあったかもしれません。しかし、いまの日本のような豊かな社会では、ある程度の格差は認めていかなくてはいけない。そういう時期に来ていると思います。
左遷は飛躍のチャンス。
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格差があるにしても、差を付けられた方が凍死したり餓死したりはしていない。
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人間は一度へこたれたら、それでもうおしまいだ。ただ、へこたれるということは自分の心が決めることで、他人の決めるところではない。人が何と言おうが、自分の心がへこたれなければ、へこたれたことにはならない。
最近、日本人の心の中から執着心や忍耐力、こだわりが失われている。日本の製造業が名をなしてきた換骨暗黙知の世界。IT化が進めば暗黙知が形式知に置き換わっていくが、暗黙知は依然必要だ。
いま流行の「リストラすれば企業の競争力が上がる」という主張には、二つの重要なポイントが欠落していると言えます。その一つは「人間尊重」。すなわち、あらゆる経済活動の中心にあるのは人間だという素朴な信念です。市場経済が合理的で優れたものであることは言うまでもありませんが、株式市場に翻弄されて、人々が生活の基盤を失ったり、家族が離散せねばならなかったり、自殺者が極端に増加するようでは何もならない。人間尊重は近年流行している市場原理主義よりもはるかに普遍的な考え方のはずです。
人間の国際化しないと日本ダメになる。第2の大和民族を作ってもよいから若い外国人に来て貰い少子化対策を。
私が首相になったら、まず大臣の辞表を預かる。大臣は次官の、次官は局長の辞表を預かってをやればいい。
市場がマネーゲームの場である以上、短期的な利益を追求することは、致し方の内面もあります。しかし、株主のとっても長期的な投資という観点からすれば、一時的な配当を求めて人材を削減することにメリットがあるとは思えません。この二つをよりどころとする企業経営、それを私は「人間の顔をした市場経済」と名付けました。
兵站が伸びきっている。
一人ひとりが起業家、経営者の視点に立ち、「打倒トヨタ」の発想で改革に着手してほしい。最大の敵は内なる慢心。変革のチャンス、ニーズを見逃すな。
会社も社則を10年に一度、状況に合わせて改める。そうしない会社が沈没するように、変化できない日本は沈没するしかない。
リストラするなら経営者は腹を切れ。
努力した人が報われる社会にしなければ、閉塞感は増すばかりです。「平等」に価値が置かれた結果、社会から変わろうとする意欲が失われてしまったんです。それによって、日本はすでに周回遅れのランナーになってしまった。1980年代、アルビン・トフラー氏は「第三の波」で、本格的な情報化社会の到来や、ボーダーレス社会の到来を予言しました。日本の場合、戦後の成功とは言っても短期間な成功にすぎなかった。だから第三の波がやってくるや、知らず知らずのうちに周回遅れになっていた。
人口の減少を高齢者や女性、情報技術の力で埋めたり、あるいは200万人にのぼるフリーターを活用すればよいという一部の主張は馬鹿げた話」と一蹴した。優秀で多様な価値観を持つ外国人の力を積極的に借りなければ日本の競争力を維持するのは難しい。
人間は生まれながらにして異なる個性と才能、環境を持つわけですから、すべて平等ということはあり得ない。平等は確かに尊重すべき価値観ですが、努力の過程を無視して結果だけを一律にそろえることがいいとは思えません。
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奥田碩のすべての名言