チャーリー・チャップリン
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私は雨の中を歩くのが好きなんだ。そうすれば、誰にも泣いているところを見られなくて済む。
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母は私に舞台に対する興味を植えつけだした。自分には才能があると、私が思い込むように仕向けるのである。
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運命の女神たちが人間の運命を決定するとき、そこには憐憫もなければ公平感もない。
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人生は恐れなければ、とても素晴らしいものなんだよ。人生に必要なもの。それは勇気と想像力、そして少しのお金だ。
母の言葉を借りると、結局、客人というものはケーキと同じで、滞在期間が長くなると味は落ちるというのである。
成功は人を愛想よくする。私はスタジオの人たち、誰ともみんな親しくなった。エキストラから道具方、衣装係からカメラマンに至るまで、私はみんなの「チャーリー」になった。もともとあまり社交好きではなかったが、さすがにこれは嬉しかった。つまり、みんなが親しんでくれるというのは、とりもなおさず私が成功者だという証拠だったからである。
もともと人間の運、不運などというものは、空行く雲と同じで、結局は風次第のものに過ぎない。
妙なもので、舞台が失敗と決まると、かえって気は軽くなり、心の重荷も降りた。アメリカには、ほかにチャンスがいくらでもある。どうして舞台ばかりに噛り付いているのだ?何も芸術に一生をささげたわけじゃない。商売をかえろ!私はようやく自信を取り戻しだした。そうだ、どうなろうとアメリカで頑張ろう。そう私は決心した。
しばしば、とんでもない悲劇がかえって笑いの精神を刺激してくれる。
危機というものは、続いているうちに、クライマックスがやってくる。
新聞売り子、印刷工、おもちゃ職人、ガラス職人、診療所の受付などなどと、あらゆる職業を転々としたが、その間もシドニィと同様、俳優になるという最終目標だけは、一度として見失わなかった。だから、仕事の合間には、靴を磨き、服にブラシをかけ、きれいなカラーをつけて、ストランドに近いベドフォード・ストリートのブラックモア俳優周旋所へ定期的に顔を出していた。それは服がボロボロになって、とても人前には出られなくなるまで続いた。
人の不幸を司る神は、ときおりその遊びにも飽きて、慈悲を垂れることがある。
必要なのは知識でなく思いやりである。思いやりがなければ残るのは暴力だけである。心に愛を知らぬものだけが憎しみ合うのだ。人生はもっと美しく、もっと素晴らしいはずだ。
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いつまでも続く不運などというのは、良いことずくめの一本道の人生などというのがないと同様、まずあるはずのものではない。つまり運・不運ともに、いつかは変わるに決まっている。
一人を殺せば殺人者だが、百万人を殺せば英雄だ。殺人は数によって神聖化させられる。
当時の私たちのようなどん底暮らしをしていると、つい言葉づかいなど構わないようになりがちだった。しかし母は、いつも周囲の風に馴染まぬように心がけ、家族の言葉づかいにも注意深く心を配り、文法上の誤りなどは訂正し、私たちが周りとは違った人間なのだという自覚を植え付けようとした。
貧乏は楽しいものだと他人に思わせるのはけしからん態度である。貧乏に対してノスタルジアを感じたり、その中に自由を見だしたりする人にはまだ会ったことがない。名声や巨富は拘束を意味するなどと言って貧乏人を説得することは誰にもできまい。現に私は富の中になんの拘束も発見しない。それどころか、私はその中にたくさんの自由を発見するものである。
完全な愛は一人の人間が表現できる範囲を超えている。
私の最高傑作は「これから作る次の作品」だ。
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権力と威厳を持ちすぎる者は、いつでも最後には人々の嘲笑の的となる。
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