井上ひさしの名言
小説家
井上ひさしの名言。全67個。
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難しいことを優しく、優しいことを深く、深いことを面白く、面白いことを真面目に、真面目なことを愉快に、愉快なことはあくまでも愉快に。
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黙っているうちに、世の中がどんどんヘンな方向へ流されて行く。そしてその結果はなにもかもすべて、黙っていた人たちの上に覆い被さってくる。
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戦争の時だって、反対する人はいました。でも、そのときの空気がそれを認めなかった。私たちは空気で動き、空気が先導した結果だから、誰も責任を取らないんです。
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本当におもしろいのは、書いているうちに筆が自然に外れていくことなんですね。そっちへ行っちゃだめ、というのに外れていく。それがいちばんおもしろいんです。
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辞書はよき相談相手であり、友人であり、いろんなことを教えてくれるおじさんなのです。そんなふうに辞書と付き合えば、一生の得ですよ。
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日本人を動かしているのは、人じゃなくて空気なんです。一人一人が自立していないから、空気が変わるとみんな付和雷同して意見や態度をコロコロ変える。
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目先のよく見えるお道化者は、決して頂上を極めてやろうなどという野望は抱かない。またどうしても己が野望を実現したいと思うときは、別のものになって再登場する。
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駄洒落愛好者たちとは、「別の見方がないだろうか」「他の立場に立てばどうであろうか」という思いやりや心のやさしさや咄嗟の機転をあわせ持った人間たちのことなのである。
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理想や将来はいまは無いものです。しかし、ああしたい、こうなりたいという希望を言葉にして設定することで、私たちは理想や豊かな将来に向かって歩いていくことができる。
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全部わかって書いている──これぐらい、つまらないこともありません。それなら、書かないで頭の中で考えて、あっ全部できたと、もうそれで終わればいいんです。
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日頃から自分の好みをよく知り、おのれの感受性をよく磨きながら、自分の好みに合う文章家、それも少しでもいい文章家と巡り合うことを願うしかない。つまり文章上達法とはいかに本を読むかに極まるのである。
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暴れ狂っているなにものかを表現可能なものにするために、作家は技法という回線を敷き、その回線を通じて、そのなにものかをじぶんの外へ採り出すのです。
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現代はあらゆる面で新しいバランスを模索している時代だと思います。早めに今までと違う次元、違う生き方を発見していかないと、この地球では少数の人々しか生きていけなくなってしまう。
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朝目覚めたときに、今日も頑張ろうと思えることが大切。そう思えなくなったら、その原因はなんなのかを自分で見つめる必要がある。
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男を言いあらわすのに「可憐虫」というコトバがあることからも明らかなように、男、あるいは亭主なるものは地べたを這いずりまわる虫さながらに、可憐で哀れな存在ではないだろうか……。
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雄々しくネコは生きるのだ。尾をふるのはもうやめなのだ。失敗おそれてならぬのだ。尻尾を振ってはならぬのだ。女々しくあってはならぬのだ。お目々を高く上げるのだ。
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私はすべての芸術は、全人類にとまでは言わなくても、少なくともそのサポーターたちにほんの少し、生活のヒントを与えるのが仕事だと考えています。
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難しくて、訳がわからなくて、やっと読みとくと、実にくだらない、平凡な、「そんなこと俺だって考えているよ」といった中身。難しい、訳のわからない文章でごまかして書いているのが、なかなか多いんですね。
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内心は大好きなくせに、他の御一党様もこぞってそれを好むとなると「あれはいかん。だいたい日本人というのは」と屁理屈をこねまわして天邪鬼を気取る。われながらいやらしい奇癖である。
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日本人というのは哲学やってもしようがないんですね。なにしろ、宇宙の果てがどうなっているか、星空を見上げないから考えない。一生考えたってわかりっこないんだから考えない。
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本が父親となれば、たとえばシェイクスピアはホラ吹き親父、モリエールはおもしろ親父、ドストエフスキイはおしゃべり親父、そしてトルストイは説教親父である。
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本を批評しなければならないときは、「一つでもよいところがあれば、命がけでほめる。だめな本は取り上げない」というのをただ一つの原則にしている。
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専門書を読むときは、まず目次をじっくり読み込む。泥棒の名人が忍び込む前にその家の構えをじっくり観察するように、専門書を読むときは、その構造を前もって見破る。
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文章を書く相棒というのは、原稿用紙のむこうにいる読者でもあれば、自分の長期記憶でもあるんです。その相棒と手を繋いで書いていく。