二宮尊徳
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朝夕に善を思っていても、その善事を実行しなければ善人とはいえない。だから悟道治心の修行などに時間を費やすよりは、小さい善事でも行なうのが尊い。善心が起こったならば、すぐ実行するがよい。
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心の力を尽くして、私心がないものは必ず成功する。
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世人は蓮の花を愛して泥を嫌がり、大根を好んで下肥を嫌がる。私はこういう人を半人前という。蓮の花を養うものは泥である。大根を養うものは下肥である。蓮の花や大根は、泥や下肥を好むことこの上なしではないか。世人の好き嫌いは、半面を知って全面を知らない。これまさに、半人前の見識ではないか。どうして一人前ということができよう。
富貴天にありという言葉は、寝ていても勝手に豊かになると考えている人もいる。これは大きな間違いである。その意味は、日々励んで、その言動が天理にかなっているときには、富は向こうから近づいてくるということだ。
心の田畑さえ開墾ができれば、世間の荒地を開くこと難しからず。
私が倹約を尊ぶのは、その後に活用することがあるからである。住居を簡素にし、服や食を粗末にするのは、資本を作り、国を富ませ、万人を救済するためである。目的があるのが倹約である。
衰えた村を復興させるには、篤実精励の良民を選んで大いにこれを表彰し、一村の模範とし、それによって放逸無頼の貧民がついに化して篤実精励の良民となるように導くのである。ひとまず放逸無頼の貧民をさし置いて、離散滅亡するにまかせるのが、わが法の秘訣なのだ。
一人の人間は、宇宙にあっては限りなく小さいが、その誠意は天地をも動かすことができる。
この仮の身を、わが身とは思わずに、生涯一途に世のため、人のためをのみを想いながら、国のため、天下のために貢献できることだけに励み、一人でも、一家でも、一村でも貧乏から抜け出て裕福になることを想い勤め、怠らないようにしているのである。これが私の覚悟である。
我が家の繁栄を捨て、身命をなげうって、無数の家を繁栄させることに努める。これが私の決意である。
大事をなしとげようと思う者は、まず小さな事を怠らず努めるがよい。それは、小を積んで大となるからである。大体、普通、世間の人は事をしようとして、小事を怠り、でき難いことに頭を悩ましているが、でき易いことを努めない。それで大きなこともできない。大は小を積んで、大となることを知らぬからである。
万町の田を耕すもその技は一鋤ずつの功による。
人道は勤めるのを尊しとし自然に任せるのを尊ばない。勤めるということは私欲に克つということである。
積小為大。
一万石の米は一粒ずつ積んだもの。1万町歩の田は一鍬ずつの積んだもの。万里の道は一歩ずつ積み重ねたもの。高い築山も、もっこ一杯ずつの土を積んだものなのだだから小事を努めて怠らなければ、大事は必ず成就する。
尊い人の道も書物に書いた時は、世の中を潤すことはなく、世の中の役に立つこともない。それは、水が凍ったようなものである。この氷となった書物は、胸中の熱を使って元の水に戻さなければ役に立たない。書物を理解して実行する力を尊ぶのである。
政事は豆腐の箱の如しである、箱が歪めば豆腐も歪む。
早起きにまさる勤めぞなかるべし夢でこの世を暮らしゆく身は。
学者は書物を実にくわしく講義するが、活用することを知らないで、いたずらに仁はうんぬん、義はうんぬんといっている。だから世の中の役に立たない。ただの本読みで、こじき坊主が経を読むのと同じだ。
凡人は小欲なり、聖人は大欲なり。
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