二宮尊徳の名言
江戸時代の武士、思想家、経世家
二宮尊徳の名言。全87個。
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速成を欲するのは、人情の常である。けれども成功、不成功には時期があり、小さい事柄でも、おいそれとは決まらない。まして大業ならばなおさらのことだ。
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悪いことをした、やれまちがったと気づいても、改めなければしかたがない。世の中のことは、実行によらなければ事は成就しない。
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大事を成さんと欲する者は、まず小事を務むべし。大事を成さんと欲して小事を怠り、その成り難きを憂いて、成り易きを務めざる者は、小人の常なり。それ小を積めば大となる。
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学者は書物を実にくわしく講義するが、活用することを知らないで、いたずらに仁はうんぬん、義はうんぬんといっている。だから世の中の役に立たない。ただの本読みで、こじき坊主が経を読むのと同じだ。
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私が倹約を尊ぶのは、その後に活用することがあるからである。住居を簡素にし、服や食を粗末にするのは、資本を作り、国を富ませ、万人を救済するためである。目的があるのが倹約である。
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正しい道というものは、必ずこの世の人々に利益をもたらすものである。学問をする時も、修行をする時も、このことが実現できなければ、人の世には何の利益ももたらさない無用のものとなる。
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私の本願は、人々の心の田の荒廃を開拓していくことである。天から授けられた善の種である仁義礼智を栽培し、善の種を収穫して、各地に蒔き返して、日本全体にその善の種を蒔き広めることである。
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商売をするときは、金を儲けようなどと考えずに、ひたすら商道の本意を勤めなさい。よく商人の本意を守って努力すれば財は求めなくても集まり、豊かになることは計り知れない。
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恩には報いていかなければならないという道理をわきまえることができれば、この世の中のこと全てについては、何の迷いも無く進められる。
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親の養育を受けたことに報いるために子供を養育し、先生から教えを受けたことに報いるために子弟を教え、人の世話を受けたことに報いるために人の世話をする。これが人道である。
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貧となり富となる。偶然にあらず、富も因て来る処あり、貧も因て来る処あり。人皆貨財は富者の処に集まると思へども然らず。節約なる処と勉強する所に集まるなり。
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人々にはそれぞれ長所もあり、短所があるのは仕方がない。相手の長じているところを友として、劣っているところは友としてはいけない。人の短所を捨て、長所を友とするのだ。
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すべての商売は、売りて喜び、買いて喜ぶようにすべし。売りて喜び買いて喜ばざるは道にあらず。貸借の道も、また貸して喜び、借りて喜ばざるは道にあらず。
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樹木を植えて、30年たたなければ材木にはならない。だからこそ後世のために木を植えるのだ。今日用いる材木は、昔の人が植えたものだとすれば、どうして後世の人のために植えないでよかろうか。
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世の人はみんな金銭の少ないのを嫌って、ひたすら多いことを願うけれど、もしも金銭が銘々の願いどおりに多かったとしたら、砂や石となんの違いもない。
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世の中の人はみんな、聖人は無欲だと思っているが、そうではない。その実は大欲であって、正大なのだ。賢人がこれに次ぐもので、君子はそのまた次だ。凡夫のごときは、小欲のもっとも小なるものだ。
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昔から方位で禍福を考えたり、月日で吉凶を説いたりすることがあって、世間ではこれを信じているが、この道理はあり得ない。禍福吉凶というものは、人それぞれの心と行ないとが招くところに来る。
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財はよく人を富ますが、またよく人を貧しくするのは、なぜかといえば、天分の度合に小と大とがあるからだ。小と大とに即応して経理する術を知っている者は、貧窮の憂いがない。
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貧となり富となるのは偶然ではない。富もよってきたる原因があり、貧もそうである。人はみな、財貸は富者のところに集まると思っているが、そうではない。節倹なところと、勉励するところに集まるのだ。
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朝夕に善を思っていても、その善事を実行しなければ善人とはいえない。だから悟道治心の修行などに時間を費やすよりは、小さい善事でも行なうのが尊い。善心が起こったならば、すぐ実行するがよい。
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村を仁にすることは難しくはない。まずは自分の家を仁にすることである。それから善人や正直者を厚く賞すれば必ず村全体が仁となる。
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節約によって無駄な費用を省き、余分を生じて、仲間を救い、善行を実践し、悪事をせず、まじめに勤めればどんな貧村も必ず富むことが出来る。
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すでに熟したものを差し置いて、まだ熟しないものを心配している。これは人情の常である。しかし、まだ熟しないものを心配するより、すでに熟したものを取り入れる方が、どれほど良いかわからぬ。
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わざわいは過去の因縁によって来る場合もある。名僧が強盗にあったときの歌に「前の世の借りを返すか、いま貸すか、いずれ報いはありとしぞ知れ」と詠んだとおりだろう。決して迷ってはならない。
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よく徳に報いる者は、将来の繁栄のことはさておき、今日ただいまの丹精を心掛けるから自然と幸福を受けて、富貴がその身を離れない。
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あなたは心得違いをしている。それは運が悪いのでもなし、神明の加護がないのでもない。ただ、あなたの願うことと、することが違うからいけないのだ。
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世の中には、人がまだ捨ててはいないが、活用していないものが多い。これらをよく拾い集めて、国家を再興する資本とすれば、多くの人を助け、まだ余りが出る。これが私が小さい頃から行ってきた道である。
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世の人が、生きているときは人で、死んでから仏となるというのは間違っている。生きている時から仏であるから死んで仏になるのである。
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真の学問とは、小欲を大欲に変えるための手段。小欲とは己のみの欲求を満たすことであり、大欲とは人間そのものの幸福を満たすことである。
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貧者は昨日のために今日つとめ、昨年のために今年つとめる。それゆえ終身苦しんでも、そのかいがない。富者は明日のために今日つとめ、来年のために今年つとめるから、安楽自在ですることなすことみな成就する。
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貧富は分度を守るか分度を失うかによって生ずる。分度を守って、みだりに分内の財を散らさなければ富にいたるし、分度を失い、他から借財して分内に入れるようであれば、やがて貧に陥る。
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因というのは、たとえば、蒔いた種のことだ。これを耕作培養するのが縁だ。種を蒔いた因と、培養した縁とによって秋の実りを得る、これを果というのだ。
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富は人のほしがるものだ。けれども人のために求めれば福を招き、己のために求めれば禍を招く。財貨も同じことで、人のために散ずれば福を招き、己のために集めれば禍を招く。
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世間の人は、とかく小事を嫌って大事を望むけれども、本来、大は小を積んだものである。だから、小を積んで大をなすほかに方法はない。