堺屋太一
2
戦後の日本は、いわば「ええとこ取りの体制」だった。西側の技術を導入し、自由貿易で豊かな資源と広い市場を得た。その一方で、官僚主導で企業を保護し、過当競争を避けて効率的な資源配分を官僚に期待した。通常、このようなやり方では官僚的硬直と自己満足に陥るものだが、輸出競争と技術導入がそれを防いでくれた。
1
官僚主導業界協調体制のシンボルは経団連であり、日本商工会議所である。大企業の経営者はその役員となって業界世話役の「財界人」に変身すると同時に、古巣の企業にも影響力を残して、交際費や団体への会費・協賛金を提供した。個人の収入と資産の乏しい戦後日本では、これが社会の最上部を形成した。
0
目先のことにとらわれてはいけない。好きなことをやらないと必ず後悔する。
3
時間が忘れられる仕事を探しなさい。
日本式経営を支えたのは三本の柱である。第一の柱は「閉鎖的雇用関係」、年功序列、終身雇用、企業内組合である。第二の柱は「先行投資型財務体制」である。企業は配当や賃金を低めに抑え、内部留保を厚くして先行投資を行った。第三の柱は「集団的意思決定方式」だ。意思決定に時間はかかるが不満はない。社長が決断を下すころには、全社員が内容を知っている。だから「決定は遅いが、実行は速い」という日本的特徴が生まれた。
戦後の日本は自由主義の旗を掲げながら、実際には官僚主導業界協調体制をつくった。それは、実現社会の動きとしては全体主義統制経済の方に近い。日本が「最も成功した社会主義国」と言われたのも、故無きことではない。
好きなことを見つけることこそ人生で一番の仕事である。
5
人間にとっても組織にとっても理想を知ることこそが理想を実現する第一歩である。
いつの時代にも変化はある。企業は盛衰し、技術は革新され、人事は代わり、流行は変化した。だが、80年代から始まった変化は、技術進歩や規模の拡大といったものではなく、文明の根源をなす倫理と美意識を一変させるものだった。スポーツでいうならば、技術の進歩でも、ルールの変更でも、選手や観客の交代でもない。競技そのものが変わったのである。あえて言えば、大相撲からプロレスに変わったようなものだった。
が決める。だから、観客を集められる者、つまり自由市場において売れる者こそが勝者である。
仕事というのは自らを高める修行である。
4
歴史はその最終段階だけが重要なのではない。経営者の評価や財界人としての基準も変わった。80年代までのヒーローの中にも「墜ちた偶像」が何人もいた。その一方でまた、新しい経済のスターが現れつつある。没落した経営者が、その得意の絶頂で何を語り、何を誇ったか、それを読むのもまた興味深い。
戦後の日本ほど経営者が重んじられた国は、人類の歴史上でも珍しいだろう。国家の要職、重要審議会の座長や大型財団の会長、国民的な行催事や大規模国民運動の代表などには、多くの財界人、つまり経営者の大物もしくはその卒業生が就いた。経営者は世間で尊敬される立場だったのである。
不安はあるかもしれない。
実務の世界ではよく「現実的」という言葉を使うが現実的とは「目的を達成し易い」ことであって「着手し易い」ではない。
6
戦後の日本には、武人の文化がなくなってしまった。そのため、決断、勇気、大胆、覚悟といった武人的美徳まで消えてしまった。
世に義によって動く者は少ない。
経済格差があることがいいことか、悪いことか、これは難しい問題です。格差=悪と決めつけることは、ある一定の生き方、働き方を強要することにもなりかねません。誰もが正社員になって終身雇用で働いていた時代は、確かに格差は小さかった。でも、正社員と同じ給料でなくても、その分時間が欲しいという人もいるでしょう。働き方、生き方を自由に選べる社会では、結果として経済格差は残る。これは仕方がないことです。
組織に嫌われるのがイヤなようでは大したことは出来ません。
興味を持ったら、自分一人で試してみる。誰かと一緒にやってはいけません。一緒にいることが好きなだけかもしれないから。
7
堺屋太一のすべての名言