堺屋太一
1
組織が死に至る病は3つ。
3
戦後の日本は自由主義の旗を掲げながら、実際には官僚主導業界協調体制をつくった。それは、実現社会の動きとしては全体主義統制経済の方に近い。日本が「最も成功した社会主義国」と言われたのも、故無きことではない。
ペストなどによる人口の減少期にこそ、イタリアでは手工業が発達し、ヴェニスやジェノバの海洋商業が拡大、やがて来るルネッサンスが準備された。人口が減少すると生産性の低い土地は放棄され、都市に人口が集中、手工業や海運交易が盛んになったからだ。人口減少社会でも生産性の高い分野に人口と資本を移転していけば、さらなる経済と文化の発展は可能。
歴史はその最終段階だけが重要なのではない。経営者の評価や財界人としての基準も変わった。80年代までのヒーローの中にも「墜ちた偶像」が何人もいた。その一方でまた、新しい経済のスターが現れつつある。没落した経営者が、その得意の絶頂で何を語り、何を誇ったか、それを読むのもまた興味深い。
経済格差があることがいいことか、悪いことか、これは難しい問題です。格差=悪と決めつけることは、ある一定の生き方、働き方を強要することにもなりかねません。誰もが正社員になって終身雇用で働いていた時代は、確かに格差は小さかった。でも、正社員と同じ給料でなくても、その分時間が欲しいという人もいるでしょう。働き方、生き方を自由に選べる社会では、結果として経済格差は残る。これは仕方がないことです。
2
戦後の日本は、いわば「ええとこ取りの体制」だった。西側の技術を導入し、自由貿易で豊かな資源と広い市場を得た。その一方で、官僚主導で企業を保護し、過当競争を避けて効率的な資源配分を官僚に期待した。通常、このようなやり方では官僚的硬直と自己満足に陥るものだが、輸出競争と技術導入がそれを防いでくれた。
80年代に日本が築き上げた「完璧な近代工業社会」とはどんな仕組みだったのか。そこには「官僚主導業界協調体制」「日本式経営」そして「核家族職縁社会」という「工業社会のトライアングル」ができていた。
何でも自分で決められる、ということは、自分で決断することに慣れていない人にはつらい。籠の中に飼われていた鳥は、籠から急に出されたらどこへ行っていいかわからない。
官僚主導業界協調体制のシンボルは経団連であり、日本商工会議所である。大企業の経営者はその役員となって業界世話役の「財界人」に変身すると同時に、古巣の企業にも影響力を残して、交際費や団体への会費・協賛金を提供した。個人の収入と資産の乏しい戦後日本では、これが社会の最上部を形成した。
0
産業革命以来ずっと近代思想の根底にあった「物財が多い方が人間は幸せだ」という考え方。モノをたくさん作るのは正義だ。そのためには規格大量生産が一番いい。その結果、日本は自動車や電気製品に代表される規格大量生産が世界で一番上手な国になった。ところが人類の文明思想は80年代に大転換し「本当に物財が多いことが人間の幸せだろうか。満足が大きいことが幸せではないか」という方向に変わってきた。
4
我々の若いころは、感情論で話をすることは恥ずかしいことでした。たとえば会議で同僚から「君の意見は感情的だ」と言われると「違います、データがあります」なんて言い訳をしたものです。ところが80年代以降は、「あなたの言っていることは単なる数字。住民感情はそんなもんじゃない」と言われたら一発で負けなんです。主観や感情が科学的数字に勝つようになってしまった。
日本式経営を支えたのは三本の柱である。第一の柱は「閉鎖的雇用関係」、年功序列、終身雇用、企業内組合である。第二の柱は「先行投資型財務体制」である。企業は配当や賃金を低めに抑え、内部留保を厚くして先行投資を行った。第三の柱は「集団的意思決定方式」だ。意思決定に時間はかかるが不満はない。社長が決断を下すころには、全社員が内容を知っている。だから「決定は遅いが、実行は速い」という日本的特徴が生まれた。
時間が忘れられる仕事を探しなさい。
目先のことにとらわれてはいけない。好きなことをやらないと必ず後悔する。
が決める。だから、観客を集められる者、つまり自由市場において売れる者こそが勝者である。
人間にとっても組織にとっても理想を知ることこそが理想を実現する第一歩である。
企業も、労働者側の多様性に応じた仕事を提供していかなければならない時代が来たのではないでしょうか。教育についても戦後教育は全部、供給者サイドの発想で考えられたものです。これが大きな問題ですね。
好きなことを見つけることこそ人生で一番の仕事である。
5
不安はあるかもしれない。
戦後の日本ほど経営者が重んじられた国は、人類の歴史上でも珍しいだろう。国家の要職、重要審議会の座長や大型財団の会長、国民的な行催事や大規模国民運動の代表などには、多くの財界人、つまり経営者の大物もしくはその卒業生が就いた。経営者は世間で尊敬される立場だったのである。
堺屋太一のすべての名言