堺屋太一
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世に義によって動く者は少ない。
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戦後の日本には、武人の文化がなくなってしまった。そのため、決断、勇気、大胆、覚悟といった武人的美徳まで消えてしまった。
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「やる気のある者が報われる」のは、経済に必要な仕組み。
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不安はあるかもしれない。
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戦後の日本ほど経営者が重んじられた国は、人類の歴史上でも珍しいだろう。国家の要職、重要審議会の座長や大型財団の会長、国民的な行催事や大規模国民運動の代表などには、多くの財界人、つまり経営者の大物もしくはその卒業生が就いた。経営者は世間で尊敬される立場だったのである。
仕事というのは自らを高める修行である。
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組織に嫌われるのがイヤなようでは大したことは出来ません。
が決める。だから、観客を集められる者、つまり自由市場において売れる者こそが勝者である。
人間にとっても組織にとっても理想を知ることこそが理想を実現する第一歩である。
好きなことを見つけることこそ人生で一番の仕事である。
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日本式経営を支えたのは三本の柱である。第一の柱は「閉鎖的雇用関係」、年功序列、終身雇用、企業内組合である。第二の柱は「先行投資型財務体制」である。企業は配当や賃金を低めに抑え、内部留保を厚くして先行投資を行った。第三の柱は「集団的意思決定方式」だ。意思決定に時間はかかるが不満はない。社長が決断を下すころには、全社員が内容を知っている。だから「決定は遅いが、実行は速い」という日本的特徴が生まれた。
時間が忘れられる仕事を探しなさい。
目先のことにとらわれてはいけない。好きなことをやらないと必ず後悔する。
官僚主導業界協調体制のシンボルは経団連であり、日本商工会議所である。大企業の経営者はその役員となって業界世話役の「財界人」に変身すると同時に、古巣の企業にも影響力を残して、交際費や団体への会費・協賛金を提供した。個人の収入と資産の乏しい戦後日本では、これが社会の最上部を形成した。
80年代に日本が築き上げた「完璧な近代工業社会」とはどんな仕組みだったのか。そこには「官僚主導業界協調体制」「日本式経営」そして「核家族職縁社会」という「工業社会のトライアングル」ができていた。
戦後の日本は、いわば「ええとこ取りの体制」だった。西側の技術を導入し、自由貿易で豊かな資源と広い市場を得た。その一方で、官僚主導で企業を保護し、過当競争を避けて効率的な資源配分を官僚に期待した。通常、このようなやり方では官僚的硬直と自己満足に陥るものだが、輸出競争と技術導入がそれを防いでくれた。
最初の仕事で「通商白書」の作成にかかわり、私はこのとき初めて自分が文章を書くのが好きだとわかりました。それで熱心にやりだして生まれたのが「水平分業論」でした。
私の生涯は、好きなことに彩られました。文章を書くことと、博覧会のプロデユースです。この二つは、やってもやっても疲れなかった。今は年を取りましたが、30代では丸二日徹夜しても平気でした。だから若い人に言いたいんです。30代で丸二日寝なくても平気、そんなふうに時間を忘れられる仕事を探しなさい。
戦後の日本は自由主義の旗を掲げながら、実際には官僚主導業界協調体制をつくった。それは、実現社会の動きとしては全体主義統制経済の方に近い。日本が「最も成功した社会主義国」と言われたのも、故無きことではない。
ペストなどによる人口の減少期にこそ、イタリアでは手工業が発達し、ヴェニスやジェノバの海洋商業が拡大、やがて来るルネッサンスが準備された。人口が減少すると生産性の低い土地は放棄され、都市に人口が集中、手工業や海運交易が盛んになったからだ。人口減少社会でも生産性の高い分野に人口と資本を移転していけば、さらなる経済と文化の発展は可能。
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