ニーチェ
1
合理性ばかり追求して心の余裕をなくし、人間らしい事柄をも無駄だと見なしていると、結局は人生そのものを台無しにする。
0
すべてのものを裸にして見ないこと、すべてのものに近づきすぎないこと、すべてのものを理解し知ろうとしないこと、これは今日の我々には嗜みの問題である。我々は羞恥心をもっと尊重しなければならない。
キリスト教徒はただひとりしかいなかった。そして、その人は十字架の上で死んだ。
生きるとはなんのことか…生きるとは…死にかけているようものを、絶えず自分から突き放していくことである。
2
一段深く考える人は、自分がどんな行動をしどんな判断をしようと、いつも間違っているということを知っている。
いつも大きすぎる課題を負わされてきたために、才能が実際よりも乏しく見える人が少なくない。
脱皮できない蛇は滅びる。その意見を取り替えていくことを妨げられた精神たちも同様だ。それは精神ではなくなる。
5
アメリカ人の息せき切った慌ただしい仕事ぶり、新世界の真の悪徳は早くも感染によって旧ヨーロッパを野蛮化し、まったく奇妙な精神喪失状態を蔓延させはじめた。すでに我々は休息をとることを恥じるようになった。ゆっくりと熟考することは、ほとんど良心の呵責を伴うようになった。我々は株式新聞に目を注ぎながら昼食をとり、時計を手にして考える。絶えず何かを逃しはしまいかと思う者のように生きている。何もしないよりは何でもいいからせよという原理がすべての文化の高級な趣味の息の根を止める。
結婚するにあたって、自分に問うてみなくてはならない。この女と老年になってまで、よく話し合うことができると信ずるか、と。結婚生活において、ほかのすべてのことは皆移り変わる。だが、交わりの大部分の時間は対話に属する。
復讐と恋愛においては、女は男よりも野蛮である。
真実の山では、登って無駄に終わることは決してない。
自分自身に対する極度の清潔癖が私の生存の前提条件となっていて、不潔な条件の下では命すら危ない。だから、私はいわば絶えず水の中で、もしくは完全に透明な光輝く元素の中で、泳いだり、浸ったり、ぱちゃぱちゃしている。そのため、私にとって他人との交際は少なからぬ忍耐の試練となる。
本当の世界は想像よりもはるかに小さい。
今のこの人生を、もう一度そっくりそのまま繰り返してもかまわないという生き方をしてみよ。
あらゆる種類の確信に拘束されない自由さは、懐疑家の意思の強さに屈している。
私の真理は怖ろしい。というのは、今まで嘘が真理と呼ばれてきたのだから、あらゆる価値の価値転倒…これが私の方式だ。
学問によって確認されるのは真理なのだろうか。むしろ、自分で自分を確認しているだけなのではなかろうか。
苦しみをともにするのではなく、喜びをともにすることが友人をつくる。
数時間の登山は、ひとりの悪者とひとりの聖者をかなり似通った人間に仕立て上げる。疲労は平等と友愛の一番の近道だ。
たくさん入れるものが人にあれば、一日には百ものポケットがあるものだ。
ニーチェのすべての名言