開高健
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釣りをしているときは外からは静かに見えるけど、実は妄想のまっただ中にある。このとき考えていることといえば、原稿料のこと、〆切日のこと、編集者のあの顔この顔、それからもっと淫猥、下劣、非道、残忍。もうホントに地獄の釜みたいに頭の中煮えたぎってる。それが釣れたとなったら一瞬に消えて、清々しい虚無がたちこめる。
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字は病いや毒から分泌される。そして、人を病ませ、毒する。
私は人間嫌いのくせに、人間から離れられない。
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顔のヘンな魚ほどうまいものだよ。人間もおなじさ。醜男、醜女ほどおいしいのだよ。
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かくて、われらは今夜も飲む、たしかに芸術は永く人生は短い。しかしこの一杯を飲んでいる時間くらいはある。黄昏に乾杯を!
釣りとは絶対矛盾的、自己統一である。
だいたい出版社の人は次の作品がほしいから、甘い蜜のような言葉ばかりを注入してくださる。ほめることがないと、句読点の打ち方がうまいとおっしゃる方もいる。「お前の作品はだめだ」ということをそういう表現で現すわけです。
人は昨日に向うときほど今日と明日に向っては賢くなれない。
釣師と魚は濡れたがる。
二十五歳までの女は自分だけを殺す。三十五歳までの女は自分と相手を殺す。三十五歳以後の女は相手だけを殺す。
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われわれ作家仲間には、「話がうまくなると小説が下手になる」というジンクスがあります。小説家はあまりお喋りするな、講演なんか引受けるな、という教訓ですね。ですから今日のお喋りがへたなのは日本文学のためです。
釣りの話しをするときは両手を縛っておけ。
スパイ小説とボルノは一人の人間の大脳皮質にとってはほぼおなじ役割をする。
私たちは、はなはだ不具な生物で、魚の棲めないところには人間も棲めないのだという鉄則を忘れて貪りつくし、掃滅し、何十匹釣ったといって去年得意になり、今年はうなだれ、自分の不具さをちっともさとることがなかった。
心はアマ、腕はプロ。
きのこは―その型態からくるものか―別の意味をもつことがある。例えばロシア語ではきのこのことをグリブイと呼び、「森へグリブイを摘みに行こうよ」と、男が女を誘うと、それは確かにグリブイがあればもちろん摘んではくるのだろうけれども、意味は最初からまるで違っているのである。
死を忘るなmementomori。
心に通ずる道は胃を通る。
《正直が最善の策》というのは熟慮、権謀を尽くしたあげくの人が吐く痛苦の言葉だ。
遊びはつまり何らかの意味で自分を征服し、拡大することにある。それは相手を殺すということではない。スポーツマンは征服するけれども支配しない。
開高健のすべての名言