開高健
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飲むのはつめたく寝るのは軟らかく垂れるのはあたたかく立つのはかたく。
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私たちは、はなはだ不具な生物で、魚の棲めないところには人間も棲めないのだという鉄則を忘れて貪りつくし、掃滅し、何十匹釣ったといって去年得意になり、今年はうなだれ、自分の不具さをちっともさとることがなかった。
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だいたい出版社の人は次の作品がほしいから、甘い蜜のような言葉ばかりを注入してくださる。ほめることがないと、句読点の打ち方がうまいとおっしゃる方もいる。「お前の作品はだめだ」ということをそういう表現で現すわけです。
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何事であれ取材費を惜しむと仕事が痩せる。
男は具体に執して抽象をめざそうとしているが女は抽象に執しながら具体に惑溺していこうとする。
かくて、われらは今夜も飲む、たしかに芸術は永く人生は短い。しかしこの一杯を飲んでいる時間くらいはある。黄昏に乾杯を!
きのこは―その型態からくるものか―別の意味をもつことがある。例えばロシア語ではきのこのことをグリブイと呼び、「森へグリブイを摘みに行こうよ」と、男が女を誘うと、それは確かにグリブイがあればもちろん摘んではくるのだろうけれども、意味は最初からまるで違っているのである。
遊びはつまり何らかの意味で自分を征服し、拡大することにある。それは相手を殺すということではない。スポーツマンは征服するけれども支配しない。
何かを得れば、何かを失う、そして何ものをも失わずに次のものを手に入れることはできない。
釣りをしているときは外からは静かに見えるけど、実は妄想のまっただ中にある。このとき考えていることといえば、原稿料のこと、〆切日のこと、編集者のあの顔この顔、それからもっと淫猥、下劣、非道、残忍。もうホントに地獄の釜みたいに頭の中煮えたぎってる。それが釣れたとなったら一瞬に消えて、清々しい虚無がたちこめる。
敗戦はわが国にとって空前の体験であったが、いっさいの言論と表現の自由が許されたあとで「戦争」というものをふりかえってみればいかにそれが数知れぬ顔を持つ怪物であるかが、やっと、おぼろげながらも、知覚されたのだった。
顔のヘンな魚ほどうまいものだよ。人間もおなじさ。醜男、醜女ほどおいしいのだよ。
私は人間嫌いのくせに、人間から離れられない。
人は昨日に向うときほど今日と明日に向っては賢くなれない。
ウイスキーは人を沈思させ、コニャックは華やがせるが、どうしてかぶどう酒は人をおしゃべりにさせるようである。
釣りとは絶対矛盾的、自己統一である。
臆病はしばしば性急や軽躁と手を携えるものだが、賢明は耐えること―耐え抜くことを知っている。
二十五歳までの女は自分だけを殺す。三十五歳までの女は自分と相手を殺す。三十五歳以後の女は相手だけを殺す。
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釣師と魚は濡れたがる。
スパイ小説とボルノは一人の人間の大脳皮質にとってはほぼおなじ役割をする。
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