開高健
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釣師は心に傷があるか・・・釣師は心に傷があるから釣りに行く。しかし、彼はそれを知らないでいる。
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神がサイコロを振ることはない。
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良い質問には答えが半分隠されている。
ウイスキーは人を沈思させ、コニャックは華やがせるが、どうしてかぶどう酒は人をおしゃべりにさせるようである。
あるときロンドンを名所探訪で歩きまわっていたら、まったく偶然に一枚の銅板に出会わしたことがある。それはというのである。私の釣りは技も心もまだまだこの一句から遠いところにあり、むしろ川岸にたつと、いよいよ心乱れてならないのである。
神は細部に宿り給う。
もっと遊べ。
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思いぞ屈してこころ滅びる夜は、油砥石をとりだしてきて、鈎をせっせと研ぐ。
敗戦はわが国にとって空前の体験であったが、いっさいの言論と表現の自由が許されたあとで「戦争」というものをふりかえってみればいかにそれが数知れぬ顔を持つ怪物であるかが、やっと、おぼろげながらも、知覚されたのだった。
森羅万象に多情多恨たれ。
神とともに行けVAYACONDIOS。
遊びはつまり何らかの意味で自分を征服し、拡大することにある。それは相手を殺すということではない。スポーツマンは征服するけれども支配しない。
サイゴンでは毎日のようにプラスチック爆弾が破裂して、大半は無告の民が死んで行くわけですね。キャバレーの女性のバラバラの肉体、血まみれの腸、目玉、太ももを忘れようとしても忘れられないけれども、いざ書こうとすると、道端のハイビスカスの花がどう揺れていたかがよみがえってくる。
人の一生の本質は二十五歳までの経験と思考が決定する。
平和は戦争よりもむつかしい。
いいか、諸君、イギリス人のアダ名はビーフイーターということになっている。あるローストビーフ気ちがいのイギリス人は、牧場の草を見て、こんないい草を食べた牛はどんなにうまいだろうかと思って唾を呑んだという話がある。この話を笑うのはいいが、よろず物事は徹底しなければいけないのだ。
きのこは―その型態からくるものか―別の意味をもつことがある。例えばロシア語ではきのこのことをグリブイと呼び、「森へグリブイを摘みに行こうよ」と、男が女を誘うと、それは確かにグリブイがあればもちろん摘んではくるのだろうけれども、意味は最初からまるで違っているのである。
春の肉体に秋の知慧の宿る理屈があるまい。
私たちは、はなはだ不具な生物で、魚の棲めないところには人間も棲めないのだという鉄則を忘れて貪りつくし、掃滅し、何十匹釣ったといって去年得意になり、今年はうなだれ、自分の不具さをちっともさとることがなかった。
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東南アジアへ出かけていく折があれば必ず、ネズミ料理を食べることにしている。その肉はあっさいりとして食用ガエルやトリ肉に似ているが、カエルのように水っぽくはなく、トリよりは野性味があり、もっとコクがあって精妙である。
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