開高健
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何かを得れば、何かを失う、そして何ものをも失わずに次のものを手に入れることはできない。
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釣りをしているときは外からは静かに見えるけど、実は妄想のまっただ中にある。このとき考えていることといえば、原稿料のこと、〆切日のこと、編集者のあの顔この顔、それからもっと淫猥、下劣、非道、残忍。もうホントに地獄の釜みたいに頭の中煮えたぎってる。それが釣れたとなったら一瞬に消えて、清々しい虚無がたちこめる。
ニジマスが海におりたのを」スチール・ヘッド」と呼ぶが、そのときは腹の虹のバンドが消えてただのマスとなり、海からふたたびあがってくると、虹がまたあらわれてくるのだ。どうしてか淡水は住人を華麗に仕立てるようである。
顔のヘンな魚ほどうまいものだよ。人間もおなじさ。醜男、醜女ほどおいしいのだよ。
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私は人間嫌いのくせに、人間から離れられない。
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人は昨日に向うときほど今日と明日に向っては賢くなれない。
部屋の中へ籠ってるとどうなるかというと、アムール・プロプルしかなくなってくる。自己愛。俺が、僕が、私が、という小説だけになってしまう。精神がブヨブヨの蒼白な肥満漢の内的独白になっちゃう。自分の足で自分の体重が運べないような蒼白な肥満漢になる。これじゃいけません。
釣りとは絶対矛盾的、自己統一である。
私は小説家だが、釣りの本はこのほかに「フィッシュ・オン」というのがあって、書くことは語ることにほかならないのだから、釣人不語などといいつつ二冊も書いてるあたり、すでに釣師として失格だろうと思っている。
二十五歳までの女は自分だけを殺す。三十五歳までの女は自分と相手を殺す。三十五歳以後の女は相手だけを殺す。
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釣師と魚は濡れたがる。
スパイ小説とボルノは一人の人間の大脳皮質にとってはほぼおなじ役割をする。
釣りはままならないものである。むろん、だからこそ、男は今日もまた竿を肩に、家を出て河へ、海へと向かうのだけれど、男にとって人生そのまま、遊びもまた……。
釣りの話しをするときは両手を縛っておけ。
日本人もまたたいした精力と規模で自然の破壊にいそしんでいる。日本の田には小川の小ブナも夕焼けの赤トンボもいず、草むらの恋人たちは耳もとに蜜バチの唸りを聞けないでいる。日本の田は稲こそ生えているが、もう自然ではなくて、化学粉末ですみずみまで殺菌された屋根のない工場となってしまった。
死を忘るなmementomori。
心はアマ、腕はプロ。
文学はファッション・ショウじゃない。古いも新しいもない。進歩も退歩もない。わかりきったことじゃないか。
《正直が最善の策》というのは熟慮、権謀を尽くしたあげくの人が吐く痛苦の言葉だ。
心に通ずる道は胃を通る。
開高健のすべての名言