もちろん左翼的な進歩性はあるし、芝居のレパートリーも、安部公房の「制服」をやったりしている。そこを選んだ。
蜷川幸雄
蜷川幸雄のその他の名言
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人と違うことをやることで、なんとか自分の存在証明をしたかったんでしょうね。人と違う、すごいものを作りたいっていう思いだけはありました。
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ネクスト・シアターは「真田風雲録」から人数を半分に減らして「美しきものの伝説」を作った。評判がよかったし、あたかもそれがスタートラインだったかのようにネクストのやつらは今、安心してると思う。
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状況と直結しているような内容を、ある種の過激なひた走り方でやっていく集団でした。ですから、同時代の若い人たちにはものすごく受けたと思うんですよ。
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元の集団は「青年俳優クラブ」という名前ですから。劇団青俳は「青年俳優」からきてるんですね。そういうところだったんで、普通の劇団とちょっと違っていた。
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「真田風雲録」でメインについたやつらが「美しきものの伝説」の稽古で全員ダメだったんだよ。で、ダメだと思っていたやつらが全員よかった。
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自分たちが直接やったわけではないけども、やはりシンパシーを持って時代と共に走ったことについての心情的な責任をとらなきゃいけないなっていうことがあるんです。
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すでにできあがっているような、旧左翼みたいなのは嫌で、もうちょっとやわで、新鮮に見える集団を選んだんです。今思えば、きっとね。
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僕は「現代人劇場」はじめ、いままでずっと集団を3年単位で壊したり作り直したりしてきたけれども、その経験から「組織は3年で腐る」と思っているんだよね。
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今、上演中の「海辺のカフカ」でも、「それは想像力の問題なんだ。夢で荷担した人は、その夢に責任をとらなきゃいけない」という台詞があるんですけど、まさしくそういうことを、自分たちの集団でやりたかった。
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木村功さんや岡田英次さんら、錚々たる人たちがいる。まだ無名だった西村晃さんもいた。みんな、ぼくより12歳ぐらい上なんだけど、あとから考えると、当時20代、30代で、若いんですね。